そもそも金沢貞将って誰?

という疑問が湧くのは当然だろう。ちなみに読みは「かねざわさだゆき」である。「さだまさ」ではないので注意。ちなみにウィキペディアでは「さだまさ」となっている。15代執権金沢貞顕の嫡子で、1302年生まれ。新田次郎新田義貞』では主人公新田義貞が大番役で京都に行った時(史実ではない)の六波羅探題として登場する。六波羅探題を辞めてから嵯峨野の方で隠棲生活を送る、という役柄だが、実際は義貞よりも年少である。1318年に17歳で評定衆・官途奉行になり、同年に五番引付頭人となる。1324年に三番引付頭人から六波羅探題南方として上洛、同時に執権探題となる。北方の常葉範貞の方が年上であることを考えると、執権探題が単に個人の器量で選ばれる、というのはいささか疑問で、貞将の執権探題就任には別の論理が働いているように思われる。
常葉範貞は北条時茂の子孫で、常葉流は時茂・時範・範貞と三代続けて六波羅北方に就任し、時茂・時範は京都で死去している。京都とゆかりの深い常葉流では朝廷に対して威圧的な行動に出られない、という考えが、当時鎌倉幕府をリードしていた連署金沢貞顕御内人長崎高綱に存在したかもしれない。貞顕・高綱と少し距離のある安達時顕は持明院統支持であったのに対し、貞顕は大覚寺統寄りであった。範貞はあるいは持明院統寄りとみられていて、貞顕からすれば範貞に任せられない、というのがあったのかもしれない。貞将に通常の五倍の兵力をつけ、武力を背景に朝廷との交渉を担当する執権探題に就任させることで、朝廷への威圧効果を狙ったのであろう。
1329年ごろから貞顕は貞将の六波羅探題交替を考えていたようで、しかし北方の範貞が重病に陥っていたため、範貞も鎌倉に帰ることを望み、結局1330年閏6月、まず貞将が六波羅を離任、政村流の北条時益と交替、一番引付頭人に就任する。一番引付頭人の次は連署・執権なので、29歳でこの地位に昇ることは、守時の次の執権も視野に入っていたことを示している。金沢家は本来引付頭人止まりの家であったが、貞顕が初めて六波羅探題に就任し、連署から探題にまでなったことで、子孫の地位も向上していったのである。ちなみに範貞も病癒えて後、普音寺仲時に交替して鎌倉に帰り、三番引付頭人に就任する。
鎌倉幕府滅亡時には新田義貞と鶴見で戦い、敗れると巨福呂坂で戦い、最後は東勝寺北条高時の下にはせ向かい「両探題及び相模守に任ずる」という高時の御教書を受け取って壮烈な戦死を遂げる。