一代主の憂鬱

後醍醐天皇が倒幕に舵を切るのが、自分の皇太子だった邦良親王が死去し、新たな皇太子に後醍醐の皇子である尊良親王ではなく、持明院統後伏見上皇の皇子である量仁親王を擁立し、さらに次期皇太子に邦良親王の皇子康仁王が擁立され、自らの「一代主」が確定したではないか、と前々回のエントリで述べた。「一代主」とは何だろうか。
この時期の天皇家は内紛が続いていた。この内紛は13世紀の半ば、後嵯峨天皇後深草天皇に譲位したが、後に皇太弟として恒仁親王を立てたことに始まる。恒仁親王は即位し、皇太子には恒仁親王の皇子世仁親王が生後八ヶ月で立てられる。亀山天皇である。後嵯峨の死後、その意思に基づき皇太子世仁が8歳で即位、後宇多天皇である。この処置に後深草上皇は不満を幕府に訴える。幕府を主導していた北条時宗は後深草の皇子熈仁親王を後宇多の皇太子として擁立した。
当時天皇家家督を「治天の君」「治天」と呼んでいた。「治天」は膨大な天皇家領荘園群を管理し、その収益を分配する権能を持つ。天皇家は最大級の荘園領主であり、国制の頂点に立つ存在であったから、天皇家家督に就くことは、自らの血統にとっては死活問題であった。天皇の地位も「治天」になるための階梯の一つになっていったのである。多くは天皇を数年経験すると退位して上皇になり、自分の直系の子どもや孫を天皇に就けることで「治天」となる。「治天」が上皇である状態を「院政」と呼び、例外的に天皇が「治天」を兼ねる場合を「親政」と呼ぶ。自らの子どもが天皇になるか、なれないか、は「治天」の地位になり得るかどうかを意味していたのである。
後深草上皇が亀山の子孫に皇位が継承されることは、後深草が治天の地位に就けなくなることを意味していた。だからこそ後深草は幕府に泣きついて治天となる可能性を探ったのである。時宗が斡旋に乗り出したのは、朝廷での紛争激化を幕府が恐れたからであろうが、結果として南北朝の争いの遠因を作ることになった。
亀山上皇が信頼していたのが安達泰盛で、泰盛の「徳政」と呼応するように亀山も「徳政」を推進している。しかし泰盛を倒して幕政を掌握した北条宣時平頼綱政権は亀山上皇に対して後宇多天皇から熈仁親王への譲位を迫ってきた。伏見天皇である。さらに伏見天皇の皇太子に立てられたのが皇子の胤仁親王で、この時点で亀山の子孫に皇位継承の可能性が断たれた。絶望した亀山は出家したが、翌年、伏見天皇暗殺未遂事件が起こる。黒幕は亀山という噂が広まったが、あり得ないことではないだろう。
1293年には北条貞時北条宣時平頼綱に見切りをつけ、頼綱を滅ぼす。1298年に伏見天皇の寵臣京極為兼流罪に処せられ、伏見は胤仁親王に譲位する(後伏見天皇)。そこから亀山の巻き返しが図られ、後宇多の皇子の邦治親王が即位する(後二条天皇)。この時「両統断絶あるべからず」という両統迭立の方針が確定し、後深草の子孫(持明院統)と亀山の子孫(大覚寺統)が交互に皇位に就く状態が続く。後二条天皇の皇太子には伏見上皇の皇子で後伏見上皇の弟であった富仁親王が立てられた。
ただでさえややこしい両統迭立状態をさらにややこしくしたのが、大覚寺統の始祖である亀山法皇の女性関係である。亀山法皇は自分の息子の後宇多の後宮藤原忠子を寵愛した。忠子と後宇多の間には尊治親王が生まれていたが、後宇多の父及び皇子尊治に対する感情は複雑なものにならざるを得なかった。さらに亀山は晩年に生まれた我が子の恒明親王を尊治親王とともに愛し、後二条の皇太子には恒明親王を立てるように計らう。
1308年後二条天皇が急死し、皇太子富仁親王が即位する(花園天皇)。花園天皇後伏見上皇の皇子が成長するまでの中継ぎであり、子孫に皇位継承の可能性がない「一代主」であった。その皇太子は大覚寺統から出すことに決まったが、後宇多は尊治と組んで恒明擁立に反対、結局尊治が後二条の遺児邦良親王成人までの中継ぎ「一代主」として立太子することになった。
両統迭立の方針が固まると、一刻も早く譲位を実現するために両統の幕府への運動は激化し、寵臣京極為兼の振舞が幕府から反発を買っていた伏見の立場は微妙なものとなり、さらに大覚寺統よりの金沢貞顕連署に就任して持明院統には不利な状況になった。1317年幕府は後継者については両統で話し合うように求めるが、伏見の死去に伴い、大覚寺統の圧力に屈した持明院統花園天皇が尊治親王に譲位(後醍醐天皇)、さらに後醍醐の皇太子には同じく大覚寺統邦良親王が就任することを受け入れざるを得なかった。
後醍醐が一代主としての自己の地位を受け入れたのは、皇太子邦良親王が病弱だった、ということが挙げられるだろう。後宇多は体調を崩し、「治天」の地位を後醍醐に譲る。そして1324年後宇多は死去し、「正中の変」が勃発する。後宇多の死去は後醍醐が大覚寺統の中でフリーハンドを獲得したことを意味した。後醍醐が倒幕を焦る必然性はないように思われる。そのころ後醍醐は実績を積み重ねていた。また邦良親王は病弱で、邦良親王に万一のことがあれば、まだ幼少の邦良親王の皇子に代わって尊良親王が皇太子になる可能性もあった。後醍醐にとって倒幕を焦る必然性はない、と私は考える。河内祥輔氏の見解に説得性を感じる所以である。
幕府は邦良サイドからの後醍醐譲位運動にも関わらず後醍醐を弁護し続ける。持明院統恒明親王も後醍醐の退位を望んでいただろう。後醍醐の最大の擁護者は実は幕府、特にそのころ実権を掌握していた連署金沢貞顕内管領長崎高資だったのではないだろうか。貞顕が嫡子貞将に通常の五倍の五千騎を付けて上洛させたのは、反後醍醐に対する威圧ではなかっただろうか、という気がする。
1326年、北条高時が病を原因として出家する。その後継として嫡子邦時と弟泰家が争った。厳密に言えば、御内人の娘を母に持つ邦時を擁立しようとした長崎高資と、邦時が得宗の地位を継承することで外戚の地位を失う安達氏が擁立する泰家が争ったのである。結局邦時が次期得宗に擁立され、邦時が14歳になるまでの中継ぎとして、邦時の縁続きに当たる連署貞顕を執権に擁立することになった。貞顕自身はそのことを直前まで知らず、また自身が執権に擁立されたことを素直に喜んでいるが、安達氏の憎悪は貞顕にも向けられ、貞顕はわずか十日で出家に追い込まれる。
そのころ邦良親王が死去し、皇太子候補として後醍醐の皇子尊良、亀山の皇子恒明、後伏見の皇子量仁がいた。結局幕府が選んだのが邦良後の皇太子候補として想定されていた量仁であった。その背景には二階堂道蘊の働きがある。道蘊は大覚寺統寄りの貞顕と対立する安達時顕を味方につけ、持明院統に有利になるように動いたのである。政所執事に野心のあった道蘊は二階堂貞衡に敗れたことを不満に思い、幕府首脳の意図から離れた行動を取るようになったのだろう。貞顕は「道蘊張行」「言語道断」と道蘊に憤りを覚えている。貞顕が大覚寺統を支持していたのは宗尊親王の娘の永嘉門院が後宇多に嫁いでいたからである。永嘉門院は後宇多の遺志に従って邦良親王の遺児の康仁王を支持していた。貞顕は康仁王の擁立を支持する立場にあったのである。
結果的に「道蘊張行」の結果か、量仁親王が皇太子になり、その後には康仁王が擁立する手はずになった。後醍醐の治天としての立場は大きく制約されたのである。それは後宇多の遺志に従う限り必然であった。しかし後醍醐は自分が一代主である現実を受け入れられず、それを否定するために倒幕を決意するのではないだろうか。
もう一つ、後醍醐が倒幕に舵を切る理由として考えられるのは、この時京都では安達時顕と組んだ二階堂道蘊が持明院統に露骨に肩入れし、一方金沢貞顕長崎高資が永嘉門院と大覚寺統後二条流に肩入れをする中で孤立感を強めた以外に、幕府内部で割れていることが白日の下に晒され、後醍醐が幕府の力量を見限った、ということも考えられる。実際後醍醐の倒幕計画が後醍醐の乳母夫であった吉田定房によって密告された時も、北条高時長崎高資の対立が勃発し、高時の側近の長崎高頼が流罪に処せられる、という事件によって後醍醐は体制を立て直すことができた。幕府の内部対立も抜き差しならないものになっていたのである。幕府の内部対立の激化は、多くの御家人の失望を招くことになり、幕府の急速な崩壊につながっていく。