存在が意識を決定する

昨日のエントリで触れた山川智応『日蓮聖人研究』(師子王学会)。私の目当ては「武蔵守宣時の人物事蹟位地権力とその信仰−聖人の法敵となりし政治界巨人の研究 其の二−」である。山川は北条宣時の人物を検討し、その政治家としての力量を高く評価する。日蓮の敵、というだけでぼろくそにけなすのがデフォルトと勝手に思っていたが、この人は違う。日蓮を徹底的に弾圧した大佛宣時の器量を非常に高く評価する。
宣時と日蓮が対立した理由について山川は次のように述べる。

かゝる穏健隠忍の政治家たる宣時が、過激なる言論と行動をしたとみらるゝ日蓮聖人に対して、修士これを悪んだのは当然であらう。即ち穏健なる常識家であつたことが、聖人を解し得られなかつた所以であらう。聖人は常識を超越したる理想家である。理想に生き、理想の世界、理想の日本を実現せんことを欲した人である。常識と穏健は、現在を肯定し、現在を維持せんとする。理想家は現在を理想まで引上げやうとする。

要するに山川は宣時はまさに「常識穏健」の政治家であるがゆえに日蓮と激しく対立することになった、というのである。ここでは宣時の「穏健なる常識家」であるところに、「常識を超越したる理想家」である日蓮と対峙する要因が求められている。つまりここでは宣時の意識が宣時の行動、ひいては政治家宣時という存在を規定しているのである。
史的唯物論の立場に立つ私はこの見解には首肯できない。
マルクスは『経済学批判』で次のように述べる。

物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。(岩波文庫版)

これを宣時と日蓮の関係に適用すると、宣時が日蓮と対立した理由は、宣時の社会的存在として「穏健なる常識家」であることを要求されるのである。あるいは「穏健なる常識家」であるからこそ、13世紀末から14世紀初頭の鎌倉幕府の中で異例な出世を遂げ、連署に上り、鎌倉幕府の政治を動かすことができたのである。鎌倉幕府重臣であるからこそ、日蓮とは相いれなかったのである。
日蓮鎌倉幕府から受け入れられない理由としてはいろいろ考えられよう。現在鎌倉時代の仏教に関しては、黒田俊雄の顕密体制論の提唱以降、大幅に研究が進展した。顕密体制論とは、鎌倉時代の仏教は「旧仏教」と言われてきた「顕密仏教」が中核を占め、いわゆる「鎌倉新仏教」と言われる宗派はいずれも顕密仏教の天台宗の分派でしかない、という立場である。体制的仏教である顕密仏教に対して、改革派となった宗派や異端となった仏教が存在する。一つの指標としては「神祇崇拝」と「神祇不拝」がある、という。体制としては、神祇思想(いわゆる神道)を崇拝する必要があり、神祇を排撃する思想は「異端」として弾圧された、と考える。
黒田の顕密体制論に対し、佐々木馨氏はいわゆる「体制仏教」にも「公家的体制仏教」と「武家的体制仏教」があり、黒田が「顕密仏教」の「正統派」と考えた宗派は「公家的体制仏教」であり、一方鎌倉幕府は「禅密体制」ともいうべき「武家的体制仏教」を作り上げた、という。この理解で言えば、北条時頼日蓮が厳しく対立するのは、日蓮が「法華経」を重視する「天台宗」の「山門派」(比叡山延暦寺)に親和性が高く、「天台宗」の「寺門派」(園城寺)や律宗を重視し、一方で延暦寺と対立した北条時頼とは衝突する運命にあった、という。
少なくとも武家権門として、日本という国家の一翼を担う鎌倉幕府を支える政治家が、日蓮のようなある意味反体制的な宗教家とはそもそも厳しく対峙しなければならない運命であった。宣時個人の思想とは無関係に宣時は日蓮と対峙しなければならない、というのが史的唯物論の立場に立つ時の考え方である。
実際にはそこまで機械的に分けられるわけはなく、鎌倉幕府の中にも日蓮支持の勢力もあった。「鎌倉新仏教」が反体制とは限らない。大佛家は浄土宗を家の宗教としていたことが今日明らかになっている。その一方で大佛家庶流の大佛貞直は時宗清浄光寺と関係を有していたようであるし、得宗臨済宗を信仰していた。得宗御内人平頼綱は浄土宗である。得宗御内人も異なるのである。そういう細かいバリエーションはいくら史的唯物論の立場に立つとは言え、考慮しなければならない、ということになる。
しかし宣時が大枠で「封建体制」の枠内にあることも確実で、彼が浄土宗を信仰していた、とはいえ、今日的な意味での「人権思想」を求めるのは全くの無意味である、という意味では「人間の社会的存在がその意識を規定する」というテーゼは正しい。宣時と日蓮がいかに対峙していたとはいえ、それは所詮「封建体制」における思考の枠組みの範囲内でのことであり、日蓮や宣時を今日的価値観で裁断するのは無意味である、という点においては、私は史的唯物論のテーゼは有効であると、思っている。