「極楽寺殿御消息」を〈読む〉

極楽寺殿とは北条重時のこと。重時は三代執権北条泰時の弟で、長きにわたって六波羅探題北方を務め、北条時頼が五代執権に就任すると時頼を補佐する連署に就任する。その娘は北条時頼安達泰盛に嫁ぎ、時頼との間には北条時宗北条宗政が生まれる。子ども達は「極楽寺流」という北条氏の中でも高い家格の家を作り上げる。
系図を掲げる。

時政ー義時ーー泰時ーー時氏ーー時頼(得宗
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      ー重時ーー長時(赤橋家)
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         |ー時茂(常葉家)
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         |ー義政(塩田家)
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         |ー業時(普音寺家)

重時の子孫を極楽寺流という。嫡子長時は六代執権に就任し、その子孫の義宗ー久時は引付衆を経ずに評定衆に就任するという得宗に次ぐ家格をほこる。久時は連署に就任、さらに久時の子の守時が十六代執権に就任する。
時茂の流れの常葉家は時茂ー時範ー範貞と六波羅探題北方に就任し、最終的には引付頭人に至る家系である。
義政は連署に昇るが、執権の時宗と対立して失脚し、塩田平に隠棲したが、子孫は塩田家として引付頭人に至る家系として残る。
業時も連署に昇り、子孫の普音寺家は孫の基時が六波羅探題北方・連署・執権を務める。
そのような鎌倉幕府のセレブ極楽寺流北条氏の始祖である北条重時が晩年に子孫のために書き残した家訓が「極楽寺殿御消息」である。その72条にこのような文章がある。(原文は『中世政治社会思想』岩波書店、日本思想体系による)

物乞の家に来りたらんには、かたのごとくなり共、いそぎて取らすべし。たとひ取らせずとも、あはれみの心言葉あるべし。いはんや物をこそ取らせずとも、じやけんの言葉をいふべからず。仏の御わざなりと知るべし。
(現代語訳)
物ごいが家に来た場合には、十分ではなくても、世間的に相応のものを、急いで上げなさい。たとえ上げることができなくても、やさしい言葉を掛けてあげなさい。ましてや物を上げることが出来なくても、邪険な言葉を言ってはならない。物ごいは仏のやっていることであると思いなさい。

重時にとっては、ホームレスを救済するのは「自明」のことだったのである。むしろ「モラルハザード」とか「労働意欲」とか言っている方が、当時には考えられない思想だった。なぜならば、労働を尊いものとみるのは、近代以降だからである。産業革命によって「勤勉」が徳目として流通していく過程は、ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で言及したことである。近代資本主義思想における「勤勉」という考えと無縁の重時には「物乞」にものを「取らす」ことは、彼らの勤労意欲を削ぐ「モラルハザード」につながる、という発想は生まれようもない。まさに「人間の社会的存在がその意識を規定する」(K.マルクス『経済学批判』)のである。
従って重時に対して「重時の考えは勤労意欲を減退させるというモラルハザードを招き、社会の生産力を低下させる考えである」という批判は全く無効である。そのような批判は「人間の意識がその存在を規定する」と考えるいわゆる「観念論」に属する。意識の持ちようによっていかようにも人間は変われる、という考え方である。「人間の社会的存在がその意識を規定する」と考える唯物論においては、重時の意識は重時の置かれた社会的諸関係に規定されており、それは重時には不可視であるが、後世の目からみれば可視化されている。重時の意識は、当時の社会的意識諸形態の範疇を出ることはあり得ない。社会的意識諸形態は、「社会的」と銘打つ以上、社会のあり方に規定されている。重時のいた社会とは封建的な生産関係に規定された社会であり、重時の思想は封建的な生産関係を正当化する社会的意識諸形態の枠内に留まるのである。この重時の意識のありようを拘束する社会的意識諸形態をイデオロギーと呼ぶのである。イデオロギーというテクニカルタームもずいぶん安直にレッテル貼りに使われてしまっているが、本来の意味はいま述べたようなものである。
だからと言って重時の思想を「所詮鎌倉幕府体制を正当化するにすぎない」と単純化するのは「唯物論」ではあるが、それは「機械的唯物論」である。重時の思想はあくまでも当該社会のイデオロギーの枠内の制限にあるとは言え、重時自身の体験や努力により、さまざまな展開を見せる。そしてそれは時には社会的意識諸形態にまで働きかけ、あるいは社会体制そのものにも働き掛けることなしとは言えない。時にそれは激しくぶつかり合い、新たな段階に歴史を発展させることもある。このダイナミズムに着目するのが「弁証法」である。そして弁証法的なダイナミズムを捉えるのが「歴史」の役割である。
あくまでも社会的存在による拘束性を認識の基礎に置きながら、その枠組みと時に激しくぶつかり合い、時にはそれを突き崩すダイナミズムに着目する考え方が「史的唯物論」あるいは別名を「唯物史観」という考え方である。
史的唯物論の立場に立脚して「極楽寺殿御消息」第72条を史的唯物論の立場で解釈すると次のようになるだろう。
重時が当時は幕府の前連署で、北条時頼安達泰盛の舅にあたり、鎌倉幕府の中でも非常に高い地位にあった、という重時の階級的な位置づけを考慮するならば、重時が当時の支配的な社会的意識諸形態(イデオロギー)をむしろ代表する存在であることは明白だろう。当時の鎌倉幕府における支配的なイデオロギーが何であるかは、実は議論があって、黒田俊雄の顕密体制論においてはいわゆる「顕密仏教」と呼ばれる「八宗」(天台・真言南都六宗)がイデオロギーの中核をなす。しかしイデオロギーの中核を佐々木馨氏は「禅密体制」と規定する。ここでの対立点は、黒田説では鎌倉幕府を規定するイデオロギーも京都と共有する、と考えているのに対し、佐々木説では鎌倉幕府は朝廷とは独立したイデオロギーに立脚していた、と捉える点である。
しかしイデオロギーにももちろんバリエーションはある。その中で重時が立脚したのが法然の思想であったことは、重時の思想に独自性を附与することになった。「物乞」に「ものを取らす」のは重時にとっては「自明」のことであったのだが、それは当時の社会において「自明」であったわけでは無論ない。当時のイデオロギーの中核をなした仏教思想においては、多数派は「因果応報」説に依拠して、「物乞」などは差別されるべき対象であった。重時の「物乞」に対し「じやけんの言葉をいふべからず」というのは、必ずしも当時のイデオロギーに従順なわけでは決してない。逆に重時が子孫に対し「じやけんの言葉をいふべからず」と書き残さなければならない背景には、そういう人々に対して「じやけんの言葉」をいう人々がいたことを示している。というよりも、当時のイデオロギーに従えば、「物乞」は「じやけんの言葉」をかけられるべき人々と意識されていたのだ。そのような中であえて「じやけんの言葉をいふべからず」と子孫に書き残した重時の存在は非常に重い。重時が鎌倉幕府政治の中枢に座った時の法令についても、重時の思想の特異性が現れている。それは本郷和人氏が『新・中世王権論』(新人物往来社)の140ページから143ページで述べているので、関心のある方は一読を勧めたい。
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