鎌倉幕府撫民法を読んでみる2

ここで言う「撫民法」とは、自力救済−自己責任の原則のもと、強者の「自由」のもとで蹂躙される弱者の保護のための立法をいう。具体的には「雑人訴訟」つまり「雑人」=一般庶民が原告として御家人を訴える事態を想定して法整備を行うこと、あるいは「百姓」の資材を些細な罪で没収することの禁止、または「寄沙汰」の禁止、つまり強者に訴訟を代行させることを禁止することなどが挙げられる。もっとも第三の「寄沙汰」禁止に関しては山僧に対する規制の問題と関連させるべきであろう。これはまた改めて検討することにし、また百姓の資材を没収することに関しては式目42条、追加法182条、追加法282〜294条で検討したので、当面は「雑人訴訟」の問題が主流になる。雑人訴訟に関してはすでに追加法262と追加法269で検討しているが、今回は現存する最古の「雑人訴訟」の条文である追加法146条を検討する。この条文は延応2(1240)年6月12日に出されている。延応2年は7月16日に仁治と改元されている。執権は北条泰時連署北条時房が死んだ直後で、しかも1月には彗星が出現し、「徳政」を行うことが要請されていた。
本文

雑人訴訟事、相分国々、被付奉行人畢。而奉行人度々雖相触、不事行之時、申成御教書之間、尫弱之訴人数返往返経日月云々。尤不便。於自今以後者、都以不可申成御教書、以奉行人之奉書、可加下知也。三ヶ度不令叙用者、可注申事由。且為懲傍輩之濫吹、且為慰雑人之愁訴、可被行罪科也。可被存此旨之状、依仰執達如件
  延応二年六月十一日   前武蔵守 判
   加賀民部大夫殿

読み下し

A 雑人訴訟の事、国々に相分かれ、奉行人を付けられおわんぬ。
B しかるに奉行人度々相触るるといえども、事行かざるの時、御教書を申し成すの間、尫弱の訴人数返往返日月を経ると云々。尤も不便。
C 自今以後においては、すべて以て御教書を申し成すべからず。奉行人の奉書を以て、下知を加うべきなり。
D 三ヶ度叙用せしめずば、事由を注申すべし。且は傍輩の濫吹を懲らしめんがため、且は雑人の愁訴を慰めんがため、罪科に行わるべきなり。
E この旨を存じらるべきの状、仰せに依って執達件のごとし。
  延応二年六月十一日   前武蔵守(北条泰時
   加賀民部大夫殿(町野康持−三善康信の孫で問注所の執事にして評定衆

Aでは「雑人訴訟」について、国ごとに雑人奉行が任命されていたことが記されている。「民庶の愁訴を成敗すべし」と定められており、関東御分国に派遣されていた。
Bでは奉行人が機能していないことが述べられている。その結果尫弱の訴人つまり庶民が原告となった場合、鎌倉に上って訴訟を行い、さらにその判決を持ち帰って執行することまで原告の責任であった。徹底した当事者主義であった鎌倉幕府の訴訟制度では、弱者の訴訟の権利が大きく制約されていた。その現状について「尤も不便」という認識が示されている。
CではBの現状を受けて鎌倉殿の御教書によって裁決するのではなく、在国していた雑人奉行の奉書で判決を下すことにしている。それによって鎌倉に行く手間がなくなった。
Dではそれに従わない御家人がいた場合の処置について言及されている。「傍輩」というのは、笠松宏至氏の『法と言葉の中世史』(平凡社ライブラリー)に紹介されている「御家人は皆傍輩」という理念から派生した地頭御家人のことであろう。御家人に侵害されている雑人=御家人ではない一般庶民の愁いに対応するためにこの法令が定められている。
この法令は「雑人訴訟」が、鎌倉幕府の階級的基礎である御家人階級の権利を制限しても、庶民の権利を守る方向に向かったことを示す法令である。この背景には、御家人による庶民の抑圧・搾取が鎌倉幕府にとって看過できない問題となっていたことを表すのであろう。鎌倉幕府御家人の利益のみに配慮した権力だけではもはや存立しえなかった。ここに鎌倉幕府は階級対立を超越した共同体−間−第三権力として自己を定義せざるをえないのである。この法令はそれを視覚的に明示するメルクマールであった。