鎌倉幕府撫民法を読んでみる3

延応二年に撫民法の一つである雑人訴訟に関する法令が初めて出されている。出された前年に新たに評定衆に加わった人物を見ておこう。
北条朝直
北条政村
安達義景
清原満貞
二階堂基行
このうち、清原満貞と二階堂基行は官僚なので、一番問題となるのは北条氏二名と安達義景であろう。
北条朝直は泰時が信頼していた連署北条時房の子。時房は翌年の正月に死去するので、すでに時房の後継者の育成は急務だったのだろう。
北条政村は泰時の弟。母の伊賀の方が義時死後に政村を執権に就けようと言う陰謀があった、ということで母は流罪になったが、政村はお咎めなしだった。しかし兄弟の北条実政は精神的な圧迫感から早くに実時に家督を譲り引退していたのに対し、政村はこの年に評定衆に昇進し、政界デビューを果たす。翌年からは筆頭に昇進しているので、泰時が非常に期待していたことがうかがえる。
安達義景はその妹が泰時の子の時氏に嫁し、泰時の後継者たる経時と時頼を産んでいた。次代の外戚として必要だったのだろう。
いまのところ仮定でしかないが、北条政村が撫民法制定に大きな役割を果たしていたのではないか、と考えている。