鎌倉幕府「撫民法」を読んでみる4−北条政村について−

民法の代表的な形が御家人を被告・非御家人の庶民が原告となって、原告勝訴の場合に御家人に判決遵守を求めた雑人訴訟法である。それは延応二年に初めてその姿が見え、建長五年まで数度発布されている。延応二年に発布される前年に鎌倉幕府の最高議決機関である評定衆の構成員に変動があった。実務官僚では清原満貞と二階堂基行が加わり、政治枠としては北条政村北条朝直安達義景が新たに就任している。いずれも当時の執権北条泰時に近い人物で、近い将来執権となる泰時の孫経時を支えるべき役割を背負わされた人々である。その中でも特に注目されるべきは北条政村である。はてなキーワードにも北条政村はないので、今回北条政村についてみておこう。
北条政村元久二(一二〇五)年生まれ、文永十(一二七三)年に死去。7代執権。
北条義時の四男、母は伊賀朝光の娘、通称伊賀氏。政村は義時と伊賀氏の最初の子で、義時に非常に愛された。幕府の有力者三浦義村を烏帽子親として元服し、相模四郎政村と名乗った。父義時が急死した時、嫡子泰時が在京していたこともあって、伊賀氏は兄の伊賀光宗や政村の烏帽子親の三浦義村と計って一条実雅を将軍とし、政村を執権に立てて幕政を握ろうとした、とされる。しかし北条政子による義村の説得工作や、泰時の機敏な鎌倉帰還もあって計画は失敗し、伊賀氏は伊豆国北条に、光宗は信濃国、一条実雅は越前国にそれぞれ流罪となった。これを伊賀氏の乱という。もっとも北条政子によるマッチポンプである、と否定する見解も永井晋氏により出されている(『鎌倉幕府の転換点−吾妻鏡を読みなおす』NHKブックス)。この一連の事件の中で政村は連座を免れた。
26歳で式部大夫に叙爵され陸奥式部大夫と呼ばれる。以降、右馬助、右馬権頭に任官し、33歳で従五位下に叙される。延応元(一二三九)年35歳で評定衆に就任し、翌年の仁治元(一二四〇)年からは評定衆の筆頭を占め、幕政の枢要に座ることとなる。伊賀氏の乱を経てなお、35歳の若さで評定衆、翌年には筆頭に座ることができたのは、政村の実力が泰時に認められて大抜擢されたのであろう。泰時の子は時氏が病死し、時実が家人に殺害され、後継者は嫡孫の経時であったが、経時はまだ若年だったので、泰時にとっては実力者を経時の周囲に配置することが必要だった。
寛元二(一二四四)年には従四位下になり、経時の死去と時頼の執権就任、その直後の名越光時の乱で時頼を支え幕政の安定に寄与し、寛元四(一二四六)年に時頼邸で開かれた「深秘の沙汰」に北条重時北条実時安達義景三浦泰村とともに参加している。翌年には三浦泰村安達景盛(義景父)の武力衝突から起こった宝治合戦で泰村は滅び、北条氏ー安達体制が確立した。
建長元(一二四九)年引付衆新設に伴い、一番引付頭人を兼任し、幕政の中心に座る。康元元(一二五六)年に北条重時の後任として第三代連署に就任、陸奥守に任じられる。時頼が出家して重時の嫡子北条長時が執権に就任すると、引き続き連署として支え、長時が死去した文永元(一二六四)年六十歳にして七代執権となる。連署には時頼の嫡子時宗が就任した。政村には時宗に執権職を確実に引き継ぐ使命が課されていたのである。
政村政権では宗尊親王の廃位と京都送還、惟康親王の将軍擁立、引付衆の停止、御家人の土地移動禁止令の発令、越訴奉行の廃止などがある。その中でも文永五(一二六八)年にはモンゴルのフビライ・ハーンからの使者が来たことを契機にして政村は時宗に執権を譲り、自らは五代目の連署となった。執権は終身職であり、死去か出家引退以外の道を選びえたのは政村のみである。政村が当時の幕政に閉める位置の重要さがわかる。
政村の第二次連署時代には引付の復活、御家人所領移動禁止令の廃棄などがあるが、中でも二月騒動において名越時章・・名越教時北条時輔を誅し、また西国に所領を持つ御家人の九州下向を命じるなど、モンゴルとの戦争に備えた体制を作り上げた。
しかし元の使者が太宰府に来るという緊迫した情勢の中で政村は病に倒れ、文永十(一二七三)年五月二十七日に死去、六十九歳であった。政村の死を吉田経長は「関東の遺老也、惜しむべし惜しむべし」と書いている(吉続記)。
政村が執権であった時代は北条時宗外戚である安達泰盛(義景息子)と時宗御内人である平頼綱との対立が激化し、御家人所領移動禁止令とその廃棄が短期間で行われたのも、両者の対立を暗示しているという本郷和人氏の見解(『新・中世王権論』吉川弘文館)もある。
政村は和歌にも優れ、勅撰集にも40首が入集しており、歌人将軍宗尊親王とともに鎌倉歌壇の中心であった。
政村の子の時村は六波羅探題を経て連署になるが、嘉元の乱(一三〇五年)で北条宗方に殺される。妻は二人おり、一人は将軍家の女房、一人は三浦義村の弟の重澄の娘。重澄は宝治合戦で自害している。しかし重澄娘から生まれた時村が嫡子となっている。
政村の娘婿にして和歌をはじめとする和文の弟子が北条実時。政村の娘との間には鎮西探題となる北条実政評定衆で15代執権となる金沢貞顕の父にあたる北条顕時がいる。
政村の娘には他に北条時宗の弟の北条宗政に嫁ぎ10代執権となる北条師時を生んだ女性、六波羅探題北方の北条時茂に嫁ぎ、時範を生んだ女性、連署になった北条業時に嫁いだ女性、安達泰盛の弟の安達顕盛に嫁ぎ、安達宗顕を生んだ女性がいる。安達宗顕の嫡子が北条高時外戚となった安達時顕である。
政村の別邸を常葉亭というが、政村の死後、北条時茂に嫁いだ女性を通じて時茂流に継承されたのか、時茂の子孫を常葉流という。