鎌倉幕府「人身売買禁止法」を読んでみる1−『吾妻鏡』延応元年五月一日条−

「撫民」という言葉を探して『吾妻鏡』をみてみたら、次の条文(延応元年五月一日条)に行き当たった。

一日庚午。人倫賣買事、向後被停止之。是飢饉比、不諧之族、或沽却妻子所從、或寄其身於冨有之家。爲渡世計。仍以撫民之儀。無其沙汰之處。近年甲乙人面々訴訟。依有御成敗煩也。

いわゆる人身売買禁止令である。寛喜の大飢饉の最中に、鎌倉幕府は人身売買禁止を緩和して人身売買の許可に踏み切った。注意せねばならないのは、「人身売買」というのは、あくまでも「自由民」の売買であった。「下人・所従」と呼ばれる家内奴隷は鎌倉幕府法ではしばしば「雑人」として出てくる。つまり鎌倉幕府法においては「雑人」というのは「一般人」という意味と、「奴隷」という意味の二つの意味が含まれている。従って日本にはいわゆる労働奴隷が存在しない、という説は誤っている。
読み下し。

一日庚午。
A 人倫売買の事、向後これを停止せらる。
B これ飢饉の比、諧わざるの族、或いは妻子所従を沽却し、或いはその身を富裕の家に寄せ、渡世の計と為す。
C 仍って撫民の儀を以てその沙汰無きの処、
D 近年甲乙人面々の訴訟、御成敗の煩い有るに依ってなり。

Aでは人身売買の禁止が通達される。
B以下は立法に至る事情説明で、飢饉のために食べていけなくなった人々が妻子所従を売却したり、自身を富裕の家に寄せたりして生計を立てていることが言及されている。
Cでは「撫民の儀」によって「沙汰無き」ということで、撫民という名目で目をつぶってきた、という事情が述べられ、近年になって訴訟が増加したために、停止したことが述べられている。
ここでの「撫民」とはやはり禁制をゆるめることであるが、実際今日の我々の目からみれば、人身売買を許可すると言うのはとんでもない苛政、圧制、人権無視に用に思える。
ここでの論点としては幕府が再び人身売買禁止に舵を切る事情を考えなければなるまい。それは次回以降。