鎌倉幕府「人身売買禁止法」を読んでみる2−追加法114−

前回のエントリでは『吾妻鏡』延応元(1239)年五月一日条を検討し、そこに現れた「撫民」についてみた。『吾妻鏡』では「撫民」のために一時的に人身売買禁止令を緩和し、公認した、という。現在の我々からすれば、およそ倒錯した論理である。人身売買を緩和すれば当然そこに売られる人々が出てきて、彼らの悲嘆はいかばかりか、と思いやられる。鎌倉幕府における人身売買容認を「撫民」とみる論理をその時実際出された追加法からみてみる。
直接に延応元年五月一日条に出された追加法は114である。この追加法114発布の記事が前回のエントリで検討した『吾妻鏡』の記事である。
本文。

人倫売買事、禁制重之。而飢饉之比、或沽却妻子眷族、助身命、或容置身於富徳之家、渡世路之間、就寛宥之儀、自然無沙汰之処、近年甲乙人等面々訴訟、有煩于成敗、所詮於寛喜以後、延応元年四月以前事者、訴論人共以京都之輩者、不能武士口入、至関東御家人与京都族相論事者、任被定置当家之旨、可被下知、凡自今以後、一向可被停止売買之状、依仰執達如件
  延応元年五月一日      前武蔵守 判
                修理権大夫 判
   相模守殿
   越後守殿

読み下し。

A 人倫売買の事、禁制これ重し。
B しかるに飢饉のころ、或いは妻子眷族を沽却して身命を助け、或いは身を富徳の家に容れ置きて世路を渡るの間、寛宥の儀につきて、自然無沙汰の処、
C 近年甲乙人等面々の訴訟、成敗に煩いあり。
D 所詮寛喜以後、延応元年四月以前の事に於ては
D1訴論人ともに以て京都の輩たらば、武士の口入に能わず。
D2関東御家人と京都の族と相論の事に至っては、当家定め置かるるの旨に任せて、下知せらるべし。
E 凡そ自今以後、一向に売買を停止せらるべきの状、仰せによって執達件の如し。
  延応元年     前武蔵守(北条泰時
           修理権大夫(北条時房
   相模守殿(北条重時
   越後守殿(北条時盛

まずはAで人身売買の禁制の重さについて述べられる。やはり鎌倉幕府においても人身売買は重大事ではあったのだ。もちろん朝廷では飢饉に関わらず禁制であることはいうまでもない。身売りが合法だった、ということは鎌倉時代に関しては飢饉後の特殊な場合に、鎌倉幕府という武家政権(軍事政権)において一時的に合法化されたにすぎない。
Bでは飢饉のころに妻子や一族を「沽却」つまり売却して身命を助けたり、富裕な家に入れて生計を立てる、ということの禁止令が「寛宥」のため、非常措置として中断されたのである。
Cでは近年にそのことをめぐる訴訟が起きてややこしくなった、とされている。その事例については追加法112にみることが出来る。それは次回。
Dでは寛喜以後、追加法の112が出されたあとの裁判の細則について述べられている。訴訟の当事者の資格に関わる問題である。
D1の部分では原告・被告ともに「京都の輩」つまり「関東御分」に属する者以外の総称、もっとわかりやすく言えば幕府の支配が及ばない人々のこと、であれば、幕府は一切介入できないとされている。それは当然のことであり、問題はどちらかが鎌倉幕府御家人であったばあいである。その場合は幕府法つまり追加法112に従って処置すべき、と述べられている。
Eでは結論として、延応元年五月一日を以て人身売買を「一向」に停止せよ、と命じている。
追加法112で何が問題であったのか、ということを少しだけ述べておくと、売買された人を買い戻す際のもめ事が頻発していたことがうかがわれる。