鎌倉幕府「人身売買禁止法」を読んでみる3−追加法112−

前回のエントリでは『吾妻鏡』延応元(1239)年五月一日条にあった「撫民」という言葉について、同日に実際に出された追加法114をみてみた。そこでは飢饉のために一旦効力を停止した人身売買禁止令を再び発令することが述べられている。その直前に出された追加法112をみてみる。

寛喜三年餓死之比、為餓人於出来之輩者、就養育之功労、可為主人計之由、被定置畢。凡人倫売買事、禁制殊重。然而飢饉之年計者、被免許歟。而就其時減直之法、可被糺返之旨、沙汰出来之条、甚無其謂歟。但両方令和与、以当時之直法、至糺返者、非沙汰之限歟。
 延応元年四月十七日   平 判
             散位 判
             前甲斐守 判
             前山城守 判
             前大和守 判
             沙弥 判

読み下し。

A 寛喜三年餓死のころ、飢人として出来の輩は、養育の功労につきて、主人御計らいたるべきの由、定め置かれおわんぬ。
B およそ人倫売買の事、禁制ことに重し。
C しかれども飢饉の年ばかりは、免許せらるるか。
D しかるにその時減直の法につきて、糺し返さるべきの旨、沙汰出来の条、はなはだその謂れなきか。
E ただし両方和与せしめ、当時の直法を以て糺し返すに至っては、沙汰の限りにあらざるか。
 延応元年四月十七日   平 
             散位(太田康連)
             前甲斐守(大江康秀)
             前山城守
             前大和守(宇佐美祐時)
             沙弥(二階堂行盛)

Aでは寛喜三(1231)年の大飢饉の時に、飢餓を逃れるために人身売買の合法性を容認している。
Bで人身売買の禁制は重し、としながらも、Cで飢饉の時だけは非常措置として緩めたことが述べられている。
Dがこの法令のキモで、「減直の法」というのは飢饉当時の安い価格、ということ。だから売り主が飢饉当時の安い価格で買い戻しを請求するのは謂れがない、としている。飢饉当時には売る側も困っているし、奴隷として売り払われる人も増加し、いわば奴隷の供給過剰が起こり、奴隷価格の下落ということが起こったのだろう。そして飢饉が終わって奴隷価格の下落も歯止めがかかり、さらに上昇に転じてから、以前の安い価格で奴隷を買い戻そうという訴訟が増加している、ということである。
Eでは但し書きとして、双方合意の上で「当時の直法」つまり立法時点の価格つまり現時点での相場で奴隷として売られた人を取り返すのは差し支えない、とされている。