鎌倉幕府「撫民法」との関連で「北条泰時消息」を読んでみる

今のところは『吾妻鏡』延応元(1239)年五月一日条にみられた「撫民」という言葉に関連して、寛喜三年に緩和され、延応元年に再び禁止された人身売買について史料をみているところであるが、撫民法の基本的な柱となる「雑人訴訟法」に関して思いついたネタがあるので、忘れないうちにメモしておく。
御成敗式目制定にあたって、制定者である北条泰時が弟で六波羅探題北方を務めていた北条重時に送った手紙より。

御式目事
A 雑務御成敗のあひだ、おなじ躰なる事をも、強きは申とをし、弱きはうづもるゝやうに候を、ずいぶんに精好せられ候へども、おのづずから人にしたがうて軽重などの出来候ざらんために、かねて式条をつくられ候。その状一通まいらせ候。
B かやうの事には、むねと法令の文につきて、その沙汰あるべきにて候に、ゐ中にはその道をうかゞいしりたるもの、千人万人が中にひとりだにもありがたく候。まさしく犯しつれば、たちまちに罪に沈むべき盗人夜討躰のことをだにも、たくみ企てて、身をそこなう輩おほくのみこそ候へ。まして子細を知らぬものゝの沙汰しおきて候らんことを、時にのぞみて法令にひきいれかんがへ候はゞ、鹿穴ほりたる山に入りて、知らずしておちいらんがごとくに候はんか。
C この故にや候けん大将殿の御時、法令をもとめて御成敗など候はず。代々将軍の御時も又その儀なく候へば、いまもかの御例をまねばれ候なり。
D 詮ずる所、従者主に忠をいたし、子親に孝あり、妻は夫にしたがはゞ、人の心の曲れるをば棄て、直しきをば賞して、おのづから土民安堵の計り事にてや候とてかやうに沙汰候を、京辺には定めて物をも知らぬ夷戎どもが書きあつめたることよなと、わらはるゝ方も候はんずらんと、憚り覚え候へば、傍痛き次第にて候へども、かねて定められ候はねば、人にしたがふことの出来ぬべく候故に、かく沙汰候也。
E 関東御家人守護所地頭にはあまねく披露して、この意を得させられ候べし。且は書き写して、守護所地頭には面々にくばりて、その国中の地頭御家人ともに、仰せ含められ候べく候。これにもれたる事候はゞ、追うて記し加へらるべきにて候。あなかしく。
      貞永元八月八日        武蔵守 御判
    駿河守殿

この段落の分け方は古澤直人氏「鎌倉幕府の法と権力」(笠松宏至氏編『中世を考える 法と訴訟』吉川弘文館、1992年)に依拠している。
Aで注目したいのは「雑務御成敗のあひだ、おなじ躰なる事をも、強きは申とをし、弱きはうづもるゝやうに候」というところである。古澤氏の訳を引用する。「訴訟の裁断については、同様の論点を(争う)訴訟であっても、(立場の)強い者は(自らの主張を)実現させ、弱いものは顧みられない状況です」とある。一連の雑人訴訟法に続く鎌倉幕府の精神かと思えば、Bで覆される。
Bで注目したいのは「まして子細を知らぬものゝの沙汰しおきて候らんことを、時にのぞみて法令にひきいれかんがへ候はゞ、鹿穴ほりたる山に入りて、知らずしておちいらんがごとくに候はんか」のところである。古澤氏の訳を参照しよう。「まして法の定めも知らない者が日常的に支配しているようなことを、(本所からの訴えによって)裁判になった際、もし律令格式の条文に準拠して考えましたならば、まるで鹿が落とし穴にほった山に入ってそれと知らず穴に落ちてしまうようなこととなりましょう」。つまりここでの「強き」は律令格式に通じた本所であって、「弱き」は落とし穴にはまる鹿に喩えられている地頭御家人である。泰時の視線はこの段階では基本的に御家人階級の階級的利害の代弁者である。共同体−間−第三権力としての立場にまだ自己を置いていない泰時の立場がある。北条氏は自身が御家人でしかなく、他の御家人に対して超越的な立場を保持できないという制約が存在した。その制約の中でいかにして自己を共同体−間−第三権力に高めていくのか、それが北条氏の課題であった、と言えるだろう。得宗専制体制への変質はその課題への一つの解決策であった。安達泰盛の将軍権力の復活もその解決策のバリエーションであった。北条氏という御家人の代表者によって運営されるがゆえに、御家人の階級的利害を代表せざるを得ない鎌倉幕府がいかにして共同体−間−第三権力としての立場を獲得するのか、それこそが日本中世国家論である。
鎌倉幕府が自己を共同体−間−第三権力として位置づける際にどうしてもやらなければならないのは、自己を単なる御家人階級の利害を代表する権力ではなく、非御家人をも包摂し、御家人と「百姓」の階級対立を止揚し得る「第三権力」とならなければならなかったのである。雑人訴訟法はそのもっとも明瞭な形で現れる幕府権力の動きであった。