鎌倉幕府「人身売買禁止法」を読んでみる−追加法115−

ナンバリングは面倒なので講読する追加法の条文を記すことにした。
鎌倉幕府の「人身売買禁止法」。もともと人身売買は禁止されていたが、寛喜三(1231)年の大飢饉で鎌倉幕府は人身売買禁止の規定を緩め、人身売買を黙認した。それから8年が経過した延応元(1239)年に再び人身売買の禁止に踏み切った。寛喜三年の人身売買禁止規定の緩和はあくまでも飢饉の時の非常事態への対策であって、恒久法ではないことを宣言したわけであるが、実際には一旦行われた人身売買は社会に広がり、何回も禁令が出されることとなった。しばらく鎌倉幕府の「人身売買禁止法」とでもいうべき法令群をみていく。
追加法112と114は前回までの検討してきたが、引き続き115にも同じ趣旨の法令が出されている。政所奉行人が連署している追加法112が4月17日、それを受けて六波羅探題宛に北条泰時北条時房連署の関東御教書が5月1日に出されている。これが追加法114。5月6日に二階堂行盛宛に出された関東評定衆連署状である。これが今回検討する追加法115。

人倫売買事、禁制重畳、而寛喜飢饉之時、被相宥歟。於今者、任綸旨、可令停止之由、重可被下知之由、被仰下也。
 延応元年五月六日   基綱
            師員
 信濃民部入道殿

読み下し

A 人倫売買の事、禁制重畳す。
B しかるに寛喜の飢饉の時、相宥められるか。
C 今においては、綸旨に任せ、停止せしむべきのよし、重ねて下知せらるべきのよし、仰せ下さるるなり。
 延応元年五月六日   (後藤)基綱
            (中原)師員
 信濃民部入道殿(二階堂行盛)

Aでは人倫売買は昔から禁止されてきたが、Bでは寛喜の飢饉に際しての時限措置として緩めた、という、今までの史料と代わらないことが書かれている。
Cで目につくのが、「任綸旨」と、綸旨が人身売買禁止の徹底のきっかけであったことが示されている。朝廷が支配する地域ではもともと人身売買が禁止されていたので、朝廷がもともと綸旨でことさらに人身売買を禁止する必要はなさそうに思われるが、幕府が禁止を緩和したことで人身売買が広がっていったのだろう。幕府でも完全に許可したわけではなく、あくまでも緩和しただけであったので、朝廷の支配地でも人身売買が横行していたのであろう。もっともこの「綸旨」は『鎌倉遺文』にも『中世法制史料集』第6巻にも見当たらないのでなんとも言えない。
追記
これに関する記事と思われるものが『吾妻鏡』延応二年五月一日状と六日状にある。

一日甲子。人倫売買事、一向可停止之旨、今日被仰下云々。
六日己巳。為師員朝臣、基綱、行然等奉行、人倫売買事、任綸旨可停止之由、重加下知云々。

延応二年五月一日条から七月十三日条までは『国史大系』の『吾妻鏡』の底本となった小田原本には存在せず、『国史大系』では島津公爵家所蔵本によって補っている。何らかの錯簡があるのだろう。というか、多分『吾妻鏡』を扱いなれている人からすれば常識なのかもしれない。私は『吾妻鏡』をほとんどまじめに読んだことがなかったので、その辺はあまり知らない。