鎌倉幕府「人身売買禁止法」を読んでみる−追加法142−

寛喜三年に飢饉を契機として緩和された人身売買禁止だが、飢饉が収束して8年後の延応元年に人身売買の禁止が徹底されることとなった。一年後の延応二年の五月十二日和泉国守護に宛てられた関東御教書。当時の和泉国守護は逸見氏。『日本史総覧』では「逸見入道」となっており、実名は不明だが、『尊卑分脈』では逸見惟義が和泉国守護になっていることが記されている。
本文。

人倫売買停止事、云代々新制、云関東施行、已以重畳。而寛喜飢饉之境節、或沽却子孫、或放券所従、充活命計之間、被禁制者、還依可為人之愁嘆無沙汰之。今世間復本之後、甲乙之輩、鎮令違犯云々。甚以無其謂。於自今以後者、早可令停止之。如延応元年六月六日仰、当市庭立札、可令触廻国中。若猶不拘御制者、可令注申在所并交名之状、依仰執達如件。
 延応二年五月十二日   前武蔵守  判 
             修理権大夫 判
  和泉国守護所

読み下し。

A 人倫売買停止の事、代々の新制といい、関東施行といい、すでに以て重畳す。
B しかるに寛喜の飢饉の境節、或いは子孫を沽却し、或いは所従を放券して、活命の計に充つの間、禁制せられれば、還て人の愁嘆たるべきによりこれを無沙汰とす。
C 今世間本に復すの後、甲乙の輩、鎮まりて違反せしむと云々。甚だ以てその謂われなし。自今以後に於いては、早くこれを停止せしむべし。
D 延応元年六月六日の仰せのごとく、当市庭に札を立て、国中に触れ廻らしむべし。もし猶御制に拘らざれば、在所ならびに交名を注申せしむべきの状、仰せに依って執達件の如し
 延応二年五月十二日   前武蔵守(北条泰時
             修理権大夫(北条時房
   和泉国守護所

Aでは人身売買が朝廷でも幕府でも重ねて禁止されてきたことが述べられ、Bで寛喜の飢饉の時に一時的に緩和していたことが述べられている。Cでは飢饉が収束しているにも関わらず違反が相次ぎ、停止せよ、とされている。Dで目を引くには「延応元年六月六日の仰せ」であるが、残念ながら同じ日付のものは見当たらない。五月一日の追加法114か五月六日の追加法115のことを言っているのだろうか。もし違反した場合は住所と名前を報告せよ、と実力行使を行おうとしている。