鎌倉幕府「人身売買禁止法」追加法244

これもやっつけ仕事でとりあえず片づける。
本文

一 人倫売買直物事
於御制以前事者、本主可被糺返。至御制以後沽却者、不可糺返直物。本主分直物者、可被付祇園清水寺橋用途。又於其身者、不可返給本主。可被放免也。

読み下し

一 人倫売買直物の事
A 御制以前の事においては、本主糺し返さるべし。
B 御制以後の沽却に至りては、直物を糺し返すべからず。本主分の直物は、祇園清水寺橋の用途に付けらるべし。またその身においては、本主に返し給うべからず。放免せらるべきなり。

「直物」とは代金のこと。人身売買の代金に関する法令。
A 「御制以前」というのは寛喜二(1230)年の飢饉を契機に人身売買禁止が緩和されてから、延応元(1239)年に禁止されるまでの間のこと。つまり人身売買が緩和されていた時期の売買の代金についての問題。延応元年に人身売買禁止の緩和が停止されると、奴隷を売った「本主」(売り主)が売買契約を取り消し、一旦売却した奴隷を取り戻そうとする訴えが頻出した。現在の我々の常識から言えば、法令が定められた以前の行為についてはその法令の違反ではないはずなのだが、そんなことは法の理念など関係ない中世の人々には関係がない。自分に都合のよい法律であればそれを最大限利用しようとするのである。寛喜二年から延応元年六月までの売買契約については「本主糺し返さるべし」ということなので、売り主が奴隷を取り戻す場合は自分が受け取った代金を奴隷の買い主に支払え、ということである。つまり売買契約が合法であると認めている。
Bでは「御制以後の沽却」つまり延応元年六月以降の人身売買の扱いである。この段階ではそもそも売買が非合法化されているので、売り主が買い主に支払うべき代金は没収され、祇園清水寺の橋建設に寄進するとなっている。罰金刑で没収された財産を神仏に寄進する行為は広く行われていた。さらに売買されていた奴隷の扱いであるが、延応元年六月以降の売買については売り主には返却せず、解放される、と定めている。これはつまり売り主にとっては代金を没収され、買い主にとっては奴隷が解放されることで双方とも損害を蒙るようにしたのである。
争い事の当事者双方ともに罰を与えるのを喧嘩両成敗というが、そもそもこの喧嘩両成敗というのは自力救済の否定の論理である。自力救済の下では争いは強いものが勝つことになる。自力救済の原理を否定し、「喧嘩」という自力救済の発動としての強制力の私的な発動に「両成敗」を持ち出すことで待ったをかけている。ということに注目することもできるだろう。この読みが許されるならば、この段階の鎌倉幕府は「自力救済」の論理から一つ踏み出していることになる。「自力救済」の否定は「共同体−間−第三権力としての「国家」への大きな一歩であるということも言えるだろう。人身売買禁止法の検討からも「国家史」における鎌倉幕府の位置づけにアプローチすることができるかもしれない。