『碧山日録』寛正2(1461)年2月2日条

少し気分転換に『碧山日録』を読んでみたい。まあ人身売買問題が「質権」と「抵当権」の違い、というよくわからん話に入ってしまって、困っている、というのがある。
『碧山日録』は東福寺霊隠軒主太極(諱不詳)の日記。太極は別名を雲泉ともいうので、一般には雲泉太極と呼ばれるようだ。『碧山日録』はその太極の日記で、室町時代の長禄3(1459)年から応仁2(1468)年までの日記である。寛正の大飢饉の記録があり、今回みるのも寛正の大飢饉の記録である。
寛正の大飢饉とは寛正元(1461)年の夏に干ばつと大風雨が重なり、凶作となったことに端を発する。夏に異常気象が起こり、実りの秋に凶作となると飢饉が本格化するのは翌年の春である。しかもこの飢饉の時に室町幕府三管領の一つである畠山家の内紛が激化していた。畠山持国は嫡子がいなかったため、弟の持富を後継に指名したが、その後義就が生まれる。しかも持富は持国よりも早く死んだために義就の後継で問題なしと思われたが、持国は義就への家督継承を盤石ならしめようとして弥三郎を追放し、被官の神保父子を誅殺した。これに畠山被官が反発し、弥三郎支持に回り、さらに幕閣の実力者細川勝元山名持豊が弥三郎を支持し、将軍足利義政も心情的には義就を支持したいものの、細川・山名両名の圧力に負けてしぶしぶ弥三郎を家督継承者として認めざるを得なかった。と同時に義政は弥三郎をかくまっていた勝元の被官を誅殺させた。それに反発した山名持豊は義政の逆鱗に触れ、勝元の執り成しもあってかろうじて追討を免れ、但馬での隠居を命じられ、失脚した。持豊の失脚を受けて義就が上洛し、弥三郎は逃走、結局義就が家督継承者となる。弥三郎は没落中に死去し、弥三郎派は弟政長を格に結集し、反攻の機会をうかがっていた。義就はその後「上意」を詐称して軍事行動を行ったため、義政の不興を買い、結局義政は家督を義就から政長にすげ替えるが、義就は反発して嶽山城に立てこもる。この戦いが結局飢饉の時に起こったために、河内から飢民が京都に向かい、京都が飢餓の坩堝となったのである。
まずは本文。

二日、癸酉、巳而雨、願阿、於六角長法寺南路、為流民造茇舎十数間、其横長、自東洞院坊、以烏丸街為限也、

書き下し

二日、癸酉。巳に雨。願阿、六角長法寺の南路に、流民の為に茇舎十数間を造る。その横長きこと、東洞院坊より、烏丸の街を以て限りと為すなり。

東洞院から烏丸まで、と言えばかなり広い。そこに願阿が家を失った人々のための施設を造り、炊き出しをはじめとした流民の救済事業を始めたのである。ボランティアと言えばわかりやすいが、さらに言えばこれに先立つ1月22日に義政が百貫文(約1000万円)を拠出している。
当時、金持ちのことを「有徳人」と読んだ。「富」を持つことと「徳」を持つことは同義とこの時代にはされたのである。逆に言えば飢饉など多くの人々が苦しむ時には「有徳人」は持てる「富」=「徳」を社会に提供する義務があった。室町幕府はある意味最大の「有徳人」である。1000万円の私財を供出して家を失った人々の救済に当てることは当然視された、どころか、それが要求さえされたのである。義政の1000万円拠出は現在ならば十分に美談になりえただろう。しかし当時の人々はそうは思わない。むしろこういう事態に直面してなお贅沢を行い、後花園天皇から「残民争採首陽薇、処々閉炉鎖竹扉。詩興吟酸春二月、満城紅緑為誰肥」という漢詩を持って諌められてしまった。後世に至るまで義政は無能で無責任な執政者というレッテルを貼られることとなったのである。そしてそれは確かに当時の価値観からも外れた失政を行ったからであり、その失政はたかだか1000万円の拠出では埋められない失態だったのである。何よりも人民が苦しんでいる時にいわば官邸の整備を行なったという、危機感に欠けた施政を続けたことがその要因となっている。義政もKYな(空気読めない)政治家だったのであろう。