『碧山日録』寛正二年二月六日条

引き続き『碧山日録』。寛正の大飢饉に際しての室町幕府の対応をみてみる。
本文

六日、丁丑、流民之茇舎成矣、願阿命其徒、病民之不能起、俾竹輿乗之、其群聚、不可勝紀也、先烹粟粥食之、蓋飢者喫飯則倒死、故勧粥也、此賑済、以是月為限云。

読み下し

六日、丁丑。流民の茇舎成れり。願阿その徒に命じて、病民の起つこと能わざるは、竹輿をしてこれに乗らしむ。その群聚、勝げて紀すべからざるなり。先ず粟粥を烹てこれを食わしむ。蓋し飢えたる者、飯を喫はば則ちかえって死せん。故に粥を勧むるなり。この賑済、この月を以て限りと為すと云う。

仕事はおろか住居も失った人々のために足利義政が100貫文を拠出して願阿に作らせた施設が完成した記事。立ち上がることの出来ない人々は輿に乗せて運んできた。またいきなり飯(当時は強飯つまりおこわが主流)を食べさせると逆に死ぬのでまずは粥から、というこまやかな配慮が記された後に、「この月を以て限り」とある。
六角通り沿いに東洞院から烏丸までの範囲をカバーする施設に何があったのか。最初から一ヶ月の時限が切られているという背景に何があったのか、興味があるな。