「関東新制条々」9・10−追加法345・346

前回に引き続き仏事に関する条文。『御成敗式目』でも神仏関係の条文は最初に記載されていたが、合計2条に纏められているのに対し、こちらでは神仏関係だけで10条。辛酉革命を回避するための「徳政」だったのだが、もう一つ見逃せない事情がある。藤木久志『飢餓と戦争の戦国を行く』(朝日撰書687、2001年)において藤木氏が中世における飢饉をまとめていらっしゃるのだが、この「関東新制条々」が出された1261(弘長元)年には「此両三年飢饉」とある。飢饉などの災害は現在でこそ「天災」だが、天人相関思想が影響力を持つ前近代においては明確に為政者の責任と考えられていたのである。天災が続発するのは、為政者の政治が悪いことを天が責めている、と考えられていた。天災は天が発した警告と考えられていたのである。この警告を無視すれば、天はより相応しい人物を為政者にすえるべく天命を革める。いわゆる易姓革命である。辛酉の年には革命が起こりやすいと考えられていた。そのために為政者には「徳政」を行うことがより強く求められたのである。改元も一つの対処法であったが、神仏にすがるのも一つの対処法であった。ただ祈る、というよりは、神仏を管理する寺社に対してその職務を遂行するように求めることで、神仏への責任を果たそうとしたのである。当時の寺社はいわば国家的官僚機構と考えればよい。神仏に関する条文は、つまりは行政機構に対する民政の督励であったのである。
「関東新制条々」9条の本文。

一 可令諸堂執務人修造本尊
准神社修理之条、可有其沙汰。

読み下しは略。要するに神社修理の条文である2条と同様に、小破の時には適宜修理を行い、大破の時には幕府の指示を受けろ、ということである。『御成敗式目』では第1条で神社修理、第2条で寺院修理について述べている。それに準ずる条文で、「関東新制条々」第2条では『御成敗式目』第1条に加えて、それが遵守されていない現状と遵守すべきことが指示されている。
「関東新制条々」10条の本文。

一 仏事間事
堂舎供養之人、報恩追善之家、不測涯分、多費家産。雖寄事於供仏施僧之勤、猶莫不成民庶黎元之煩。還可招罪根、更非殖善苗。偏是住名聞之故歟。付冥付顕其有何益。自今以後、修仏事之人、只専浄信、宜止過差。

読み下し。

一 仏事間事
A 堂舎供養の人、報恩追善の家、涯分を測らず、多く家産を費やす。事を供仏施僧の勤めに寄すといえども、なお民庶黎元の煩いとなさざるはなし。還りて罪根を招くべく、更に善苗を殖えるにあらず。偏にこれは名聞に住むの故か。冥に付けても顕に付けても其れ何ぞ益あらん。
B 自今以後、仏事を修めるの人、ただ浄信を専らにし、よろしく過差を止むべし。

Aでは現状認識、Bでその対処、という形。基本的に前半で現状認識、後半でその対処法という形である。
仏事にあたって自己の分際を考えずに盛大な仏事を行い、結果として民の負担となっている現状を指摘している。民の負担を増やして仏事を行なうことは仏のよろこぶどころか逆に罪根を招くことになる、と指摘し、己の分際を考えない盛大な儀式を民の負担も顧みずに行うのは見栄を張るからだ、といいきる。「冥」つまり仏の世界にも「顕」つまり現世にも何の益ももたらさない、としている。同じ思想が北条重時の家訓にも残されている。「極楽寺殿御消息」62条には

堂塔をたて、親・祖父の仏事をしたまはん時、一紙半銭の事にても、人のわづらいを申させ給ふべからず。千貫・二千貫にてもし給へ、一紙半銭も人のわづらひにも候はゞ、善根みなほむらとなり、人をとぶらはゞ、いよ/\地獄におち、又我が逆修などにも、今生より苦あるべし

とある。まだこの時重時は存命であった。この年の11月に重時は死去するが、重時の晩年に書かれたと思われる「極楽寺殿御消息」と同じような条文がここにあるのは、重時の影響がこの「関東新制条々」には強く反映している証左と考えられよう。執権が重時の嫡男北条長時であれば、当然と言えば当然ではある。
北条重時の政治姿勢や、その仏事に対する姿勢については本郷和人『人物を読む日本中世史』(講談社メチエ、2006年)を参照。本郷氏による「極楽寺殿御消息」の当該箇所の訳文は以下の通り。

堂塔を建て、親や祖父の仏事をするときに、ほんの少しでも他人から金品を徴収してはならない。自分が千貫・二千貫(いまの一億・二億ほどにあたる)を負担しても、人に迷惑をかけるなら、善根はみな意味を無くし、供養される人はますます地獄に落ちる。(同書119ページ)