『吾妻鏡』寛喜三年三月十九日条所収の北条泰時奉書−追加法20

藤木久志氏の著作『飢餓と戦争の戦国を行く』に言及したついでに同書「飢饉出挙の習俗」で論及されていた追加法20条をみておこう。
寛喜三年、西暦では1231年、執権は北条泰時、この年は大飢饉で、前年夏に寒冷な異常気象と大風によって大凶作になり、翌年にそのしわ寄せが来て大飢饉を招いた、という年であった。この時鎌倉幕府は人身売買の禁を緩和し、「飢饉奴隷」を公認していた。と同時に鎌倉幕府が取り組んだのが貸し渋り対策であった。
本文。

十九日乙巳。今年世上飢饉。百姓多以欲餓死。仍武州、伊豆駿河両国之間施出挙米、可救其飢之由、被仰聞有倉廩輩。豊前中務丞奉行之。件奉書被載御判云々。

今年世間飢饉之間、人民餓死之由風聞。尤以不便。爰伊豆駿河両国入出挙之輩、依不始施、弥失計略云々。早可入把馴出挙之由、所被仰下也。兼又、後日若有対捍、随注申、可有御沙汰之由候也。仍執達如件。
  寛喜三年三月十九日    中務丞実景奉
  矢田六郎兵衛尉殿

本文の中の北条泰時奉書だけを読み下しにする。

A 今年世間飢饉の間、人民餓死の由風聞す。尤も以て不便。
B 爰に伊豆・駿河の両国出挙を入れるの輩、施を始めざるによって、いよいよ計略を失うと云々。
C 早く把馴の出挙に入るべきの由仰せ下さるる所なり。
D 兼てまた、後日もし対捍あらば、注申に随い御沙汰あるべきの由候なり。仍って執達件の如し。

Aで現状認識、Bではその原因が分析されている。富有の人は「有徳人」と呼ばれていたが、その持てる「徳」を非常時には拠出すべき、という観念があったのであった。「出挙を入れるの輩」とは人々に米や銭を貸し付けていた富有な人々のことで、それが飢饉の時に「施しを始めざるにより」すなわち貸し倒れを恐れて貸し渋りに入ったため、「いよいよ計略を失う」すなわち飢饉を深刻にしている、ということである。
その対策としてCでは金利を緩めた条件で貸付を行ってほしいと要請している。天福元(1233)年に出された追加法55条においても「停止一倍、以五把利、可為一倍」とある。「一倍」とは元本に対する100%の利息超過禁止令。年利100%だったわけだが、それを50%に制限する、とい法令である。貸し倒れのリスクを考慮すれば利息を高くし、融資基準を厳格化したいところなのだろうが、「有徳人」としてそれは許される道理はなかった。それを許さないのは泰時のような為政者だけではない。飢饉の時に自らの持てる「徳」を出し惜しみする「有徳人」に対してはしばしば社会は強制力を発揮したのである。その最も透徹した動きが「私徳政」を求める「徳政一揆」であろう。「持てる者が出すべきだ」という思想は中世を通じて機能し続けたのである。
泰時の特徴はその融資が焦げ付いた場合である。「対捍」というのは返済しないこと、つまり債権の焦げ付きと考えればいいだろう。それに対しては「御沙汰あるべし」つまり泰時が責任を持つ、と保証している。