我が九条(その3)−九条道家

九条道家本郷和人氏によれば「朝廷を『統治するもの』として再生する役割を、かれは果たした」と評価されている。彼は記録所を復興し、「徳政」つまり適材適所の人材登用と、制度の整備によって人々の訴えに耳を傾けることに努力を傾けた。道家の改革以前の朝廷は「女性を口説く洗練された物腰と、飢餓に瀕した民衆を救わんとする真摯さと。どんなに資料を調べてみても、貴族の間で共感と尊敬を集めたのが前者であることは、動かしがたい事実であった」と評される状況であった。つまり「統治」する主体ではなかったのだ。道家の改革によって実務に明るい中級貴族が登用され、人々の訴えは通じるようになった。道家自身、飢饉にあたって飢える人々、病に倒れる人々を見て為政者としての責任を感じ、彼らを救済することによって、天災である飢饉を乗り切ろうとした。(本郷和人『人物を読む 日本中世史』講談社メチエ、2006年)
貧困に苦しむ人々を「自己責任」と切り捨てる無責任な為政者ではなかったことは特筆されていい。
道家の母の一条能保女は一条能保源義朝女の間に生まれた。源義朝女は源頼朝の同母の姉妹。つまり道家は頼朝の同母の姉妹の孫にあたることになる。道家からすれば頼朝は大おじにあたる。その血統を頼りに源実朝が暗殺された後に、鎌倉幕府道家の子の頼経を将軍として迎えることになり、道家政権の後ろ盾となった。
さらに姉の立子は順徳天皇に嫁ぎ、懐成親王を生み、懐成親王践祚したが、朝幕関係の悪化に伴う承久の乱で懐成は廃位され、九条廃帝と呼ばれる(明治時代になって仲恭天皇と諡された)。道家も政治の表舞台から姿を一旦消すが、北条政子の死後、復権し、新たに即位した後堀河天皇のもとに娘の※(立に尊)子を送り込み、所生の皇子を即位させる(四条天皇)。道家の権勢が最盛期だったのはこの時期である。四条天皇が急死した後、順徳院の皇子忠成王を推挙するが、鎌倉幕府が推挙した邦仁王が即位する(後嵯峨天皇)。幕府の意向に反した道家に対する幕府の警戒心は高まり、さらに鎌倉幕府内部で権力を掌握し始めた藤原頼経も北条得宗家に批判的な名越流北条氏や三浦氏の支持を集め、危険視されるようになり、自身も倒幕計画に関与した嫌疑をかけられ、失脚し、直後死去する。
道家の子には九条家を嗣いだ教実、二条家を興した二条良実一条家を興した一条実経鎌倉幕府の将軍になった藤原頼経がいる。
東福寺を建立している。
No.3 九条道家(父:九条良経、母:一条能保女)
01:建久4(1193).07. 生(1)
02:建仁3(1203).02.13.元服正五位下、禁色を許される(11)
03:建仁3(1203).03.02.任侍従
04:建仁3(1203).07.08.転左近衛権中将
05:建仁3(1203).12.20.従四位下
06:建仁4(1204).01.13.兼播磨介(12)
07:建仁4(1204).04.13.従四位上
08:元久2(1205).01.09従三位(13)
09:元久2(1205).03.09.転権中納言
10:元久2(1205).08.09.正三位
11:元久3(1206).01.06.従二位(14)
12:元久3(1206).05.30.橘氏長者宣下
13:元久3(1206).06.16.兼左近衛大将
14:建永2(1207).01.05.正二位(15)
15:建永2(1207).02.10.転中納言、兼左馬寮御監?
16:承元2(1208).07.09.転権大納言(16)
17:建暦2(1212).06.29.転内大臣(20)
18:建保3(1215).12.10.転右大臣(23)
19:建保6(1218).02.26.辞左近衛大将・左馬寮御監(26)
20:建保6(1218).11.26.兼東宮傅(後の仲恭天皇
21:建保6(1218).12.02.転左大臣
22:承久3(1221).04.20.摂政・藤原氏長者宣下(29)
23:承久3(1221).07.08.辞摂政・藤原氏長者
24:承久4(1222).橘氏長者宣下(30)
25:安貞2(1228).12.24.関白宣下(36)
26:安貞2(1228).12.27.藤原氏長者宣下
27:寛喜3(1231).07.05.従一位、辞関白・藤原氏長者(39)
28:文暦2(1235).03.28.摂政・藤原氏長者宣下(43)
29:嘉禎3(1237).03.10.辞摂政・藤原氏長者(45)
30:嘉禎4(1238).04.25.出家(46)
31:建長4(1252).02.21.没(60)
典拠
29:『玉蘂』