勝海舟の行政改革論

ぱらぱらと勝海舟の「氷川清話」をめくっていると面白い記述をみつけたのでメモ。

行政改革といふことは、よく気をつけないと弱いものいぢめになるよ。おれの知つてる小役人の中にも、これ迄随分とひどい目に遭ったものもある。全体、改革といふことは、公常(こうへい)でなくてはいけない。そして大きい者から始めて、小さいものを後にするがよいよ。言ひ換へれば、改革者が一番に自分を改革するのサ、松平越中守が、田沼時代の幣政を改革したのも、実践躬行をやつて、下の者を率ゐていたから、あの通りうまく出来たのサ。

確かに今「改革」を叫んでいる政治家に限って自分は改革していなかったりして(笑)。

いくら戦争に勝つても、軍艦が出来ても、国が貧乏で、人民が喰へなくては仕方がない。やれ朝鮮は弱いの、支那は無気力だといつても、国家の生命に関する大問題が其方(そっち)のけにせられるやうでは、まだ鎖国の根性を抜けないというふものだ。

今ならさしずめ「経済大国になっても人民が喰えなくては仕方がない」というところか。これは日清戦争直後の話。
日清戦争前後の脱亜論に関して、勝は次のように言っている。

しかし朝鮮を馬鹿にするのも、ただ近来の事だよ。昔しは、日本文明の種子は、皆朝鮮から輸入したのだからノー。特に土木事業などは、盡く(ことごとく)朝鮮人に教はつたのだ。何時か山梨県のある處から、石橋の記を作つてくれ、と頼まれたことがあつたがその由来記の中に「白衣の神人来たりて云々」といふ句があつた、白衣で、そして髭があるなら疑もなく朝鮮人だろうよ。この橋の出来たのが、既に数百年前だといふから、数百年も前には、朝鮮人も日本人のお師匠様だつたのサ。

勝の中国・朝鮮論には中国・朝鮮をいささか過大に評価している所が散見されるのは確かである。しかし近代における脱亜論的な見方だけでは近代日本の思潮は語れない、という点でも勝の見方は参考になるだろう。
実際旧幕臣であった勝が朝鮮に親和的なのは必然で、江戸幕府のもといわゆる「徳川日本」における「正学」であったのは林家の朱子学であったのは周知のことだが、その原型は豊臣秀吉朝鮮出兵で拉致されてきた朱子学者姜ハン(さんずいに抗のつくり)に藤原惺窩が弟子入りし、藤原惺窩の弟子の林羅山徳川家康が重用したことからはじまる。朝鮮に対して旧幕臣の勝の評価が高いのは蓋し当然である。