鎌倉幕府はいつ開かれたのか
「鎌倉幕府がいつ開かれたのか」という問いに対する歴史学研究者の見解は一つではない。1180年から1192年まで12年間の幅がある。これは鎌倉幕府が開かれたことに関する史料が足りないから想像で言っている訳ではない。「鎌倉幕府がいつ開かれたのか」に関する見解は、その研究者の「鎌倉幕府とは何か」という問いに対する答えと連動している。つまり「鎌倉幕府とは何か」ということについては歴史学研究者の間に統一された定義は存在しないのである。しかしだからといって「鎌倉幕府はなかった」という論者は少なくとも歴史学研究者にはいない、と思う。加えて言えば、当時「鎌倉幕府」という言い方は存在しない。「鎌倉幕府」という言い方は、源頼朝が鎌倉に樹立した組織を今日の我々から見て「鎌倉幕府」と定義づけているだけである。しかしだからといって「鎌倉幕府は存在しなかった」という論者は存在しない。もっとも「幕府」という言い方を嫌って「鎌倉政権」という言い方をあえて選ぶ、というのは一つの見方である。しかし一般的には便宜上「鎌倉幕府」という言い方をするのが普通である。
鎌倉幕府がいつ開かれたのか、というのはかつて触れたことがあるが、かなり昔のこと(「2005-04-22 - 我が九条」)で、しかもかなり簡便なものとなっている。今回もう少し詳しくみておきたい。
1180年説。源頼朝の鎌倉の新邸落成時。つまり頼朝の南関東支配の骨格が定まった時を画期とする。石井進氏は
われわれが今日鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府と称するとき、その幕府とは決して征夷大将軍や右近衛大将の居所という意味ではない。それは鎌倉殿・室町殿などとよばれる武家の棟梁を首長とした一個の軍事政権を意味する
と主張する。「いい国(1192)作ろう鎌倉幕府」というのは征夷大将軍の居所=幕府という見解であった。それに対し、石井氏の見解は「鎌倉殿」と呼ばれた武家の棟梁を首長とした軍事政権を「幕府」と定義し、「武家の棟梁を首長とした軍事政権」が成立したのは1180年の頼朝の新邸完成であろう、というわけである。
1183年説。東国行政権の承認。寿永二年十月宣旨(以下宣旨)によって東国の行政権を獲得した時を画期とする。
佐藤進一氏による宣旨の要約。
1 東海東山諸国の年貢、神社仏寺并びに王臣家領の荘園もとの如く領家に随ふべし
2 東海東山道等の庄土(公?)、不服の輩あらば、頼朝に触れて沙汰致すべし
佐藤氏は2の「不服の輩」沙汰に関する頼朝の独占的権限を「東海東山道諸国の国衙在庁指揮権」と解し、宣旨の眼目は2にあると主張する。佐藤氏はこの宣旨の意義を次のようにまとめる。
一九カ国に及ぶ地域を実力支配下に収めた頼朝権力は、寿永二年十月の宣旨によって、既存の統一国家権力である王朝から正式に国家権力の分肢たる地位を認められた
この考えに従えば、「幕府」とは「国家権力の分肢たる地位」であることを意味しよう。
1184年説。公文所、問注所設置。頼朝は京下りの文官であった大江広元を公文所の、同じく京下りの文官の三善康信を問注所のそれぞれ執事に任命し、行政・裁判機構を整えた。この見解に従えば「幕府」の要件は「行政・裁判機構の整備」ということになる。
1185年説。今は「いいはこ(1185)つくろう鎌倉幕府」として教科書にも載せられている通説的な見解である。小林よしのり氏が「天皇の存在を小さく見せたいサヨク」の陰謀と吹き上がったのは、この説が教科書で採用されたからだ。小林氏は肝心な所を見失っている。これはあくまでも「守護地頭の設置を認められた」ところに眼目がある。頼朝が実力で全国を支配したことではなく、あくまでも「文治の勅許」ということで、守護地頭が朝廷の許可を得て設置されたことを示す。征夷大将軍にしても、守護地頭にしても、朝廷の存在を無視はしていない。だからこの説を唱えているのは別にサヨクでも何でもない。この1185年説に立ちながらも河内祥輔氏は
全国をみずからの実力で統合したことが、幕府の基礎である
と主張しているし、小林氏はそれに反応したのかもしれないが、この説が現在の教科書の前提となっているわけでは決してない。教科書で「いいくに」と教えられた説の原型は江戸時代に唱えられた説で、それではいささか古すぎるので戦前に提唱され、戦後は通説的な見解をしめた「文治の勅許」を念頭においているのである。それに対してマルクス主義歴史学者(いわゆるサヨク学者)は批判を加えているのである。
1189年説。奥州藤原氏滅亡。
川合康氏は奥州合戦について
奥州合戦とは、内乱期御家人制を清算し、あらためて鎌倉殿頼朝のもとに再編・明確化する目的で、全国の武士層をいっせいに動員したものと理解することができよう
奥州合戦こそは、近世までをも貫く「源氏将軍」という「神話」の起点だった
と主張する。
1190年説。源頼朝が右近衛大将に任じられ、六十六カ国惣追捕使に任命された時。
上横手雅敬氏は
今や頼朝が御家人を統率し、国家的な軍事警察権を担当するシステムが、恒久的な「諸国守護権」として、制度的に固定されるに至ったのである
と主張する。つまり「幕府」とは「国家的な軍事警察権を担当するシステム」が「恒久的」「制度的に固定される」ことを画期とするということになる。
1192年説。源頼朝が征夷大将軍に任じられた時。
塙保己一が唱えた説。「幕府」というのは「将軍の居所」の中国風の呼称。中国風の語源論に基づく、ということで、1192年にこだわる小林氏は中華思想を信奉する人だったのか、というネタができるだろう(笑)。まあそれはともかく、現代ではほとんど顧みられない説となっている。教科書から消えるのは別に「天皇の力を小さく見せたいサヨク」の陰謀ではない。
追記
このエントリの結論。
「鎌倉幕府とは何か」、という問いについては非常に大きな幅がある。始まった時期にしても12年、「幕府」の本質については南関東の軍事政権という見方から、国家的な軍事警察権を恒久的に担当するシステムが制度的に固定されたもの、とみる見方まで、多様な見方がある。しかし、このように研究者によって定義が違うからと言って「鎌倉幕府は存在しなかった」という人はいない。「鎌倉幕府が実在したかどうか疑わしい」「鎌倉幕府に関する史料は鎌倉幕府が編纂した『吾妻鏡』という史料で偏っているから信用できないから、鎌倉幕府は実在しなかった可能性がある」「鎌倉幕府が実在したかどうか、争っている肯定派と否定派はどっちもどっち」という人は多分いない。