「鎌倉幕府否定論」のバリエーション(笑)

鎌倉幕府がいつ開かれたのか、ということについては関心がない人がわざわざ「鎌倉幕府論には関心を持てない」と言ってくる事例はあまりない、と思う。一定の歴史事件になると誰もコミットメントを求めていないのにわざわざ「関心がない」とブクマをしてくる人が目につくが、鎌倉幕府論にはそういう「関心を持てない」「関心を持てなくて何が悪いんだ」とからむ人はいない。実際関心を持てなくても悪いと思う人はいないからだ。
で、鎌倉幕府論に関して知識もないのに知ったかぶりをしていい加減なことを言う人もあまり目につかない。はっきり言ってどうでもいい、と多くの人が思っているのであり、この問題に何らかのコミットメントをしようとする人はその関心にふさわしい最低限の知識を身に付けているからだ。鎌倉幕府論には足止め効果を発揮する無駄な情報発信もない。
鎌倉幕府における「否定派」を勝手に捏造してみると、次のようなパターンが考えられるだろう。
鎌倉幕府、という言葉自体が後世に作られたものであって、当時の人々は鎌倉幕府とは言っていない。だから『鎌倉幕府』というものは存在しない」(用語否定論)
源頼朝鎌倉幕府という組織を作った、という歴史的事実を証明する記録は後世の親源頼朝派によって編纂された史料が主であり、信頼できない。頼朝がああいう政治組織を作った、という事実自体が疑わしい」(史実否定論)
源頼朝が作り上げた組織が『吾妻鏡』の通りだとして、それをことさらに『幕府』と定義する差分はどこにあるのか」(差分論)
源頼朝による軍事政権樹立をアジアにおける後進性と評価する見解があるが、高麗でも崔忠献が同じことをやっていた。日本のケースだけをことさらに取り上げるのはおかしい」(他でもやっている論)
ざっとこういう「否定論」が思いつく。用語否定論に関して言えば、そもそも当時の言葉を使って歴史学を記述するわけではなく、現代の我々の視点で歴史を分析する以上、分析概念を否定されれば、歴史学そのものが成り立たない。分析概念を否定する、凡そ歴史学的ではない立場である。
史実否定論は史料そのものが信用できないとする。しかし実際には史料に書いてあるから史実として歴史記述を行うのではない。実際には史料がどれだけ偏っているのか、どれだけ信用できるのかを他の史料と突き合わせながら検証し(史料批判)、さらに様々な史料を組み合わせながら(史料操作)歴史は記述される。歴史学の記述にはそれ相応の手が入っているのである。歴史学が全て正しいとは言えないが、歴史学研究者が検証した史料を素人が見つけてきた一片の外国の新聞やらで否定できる、と考えるのは、あまりにも浅はかである。
差分論は一見説得性がありそうなだけに厄介だが、「幕府」という概念に対して疑問をなげかけることで、何をしたいのか、が問われるだろう。例えば平氏政権や鎌倉府も一種の「幕府」というのか、あるいは鎌倉幕府も「幕府」ではないのか。どちらにせよ、「幕府」という概念を見直すことで何をしたいのか、ということが問題である。研究者の中でも「幕府」という概念は一致した概念ではない。しかしだからといって「幕府」はなかった、とはいえないし、また「幕府」というのは全ての武士を組織したもの、というのも概念を広げすぎであり、「幕府」という言葉が無効化してしまうだろう。
他でもやっている論に関しては、基本的には「だから?」としか言いようがないだろう。鎌倉幕府の成立を、「武勇」よりも「安穏」に重きを置く東アジアの常識と違い、日本社会がアジアの中で後進地域であった、と評価する入間田宣夫氏の「比較領主制論」をネタにさせていただくが、幕府を日本の後進性とみなすことに反発するときに、可能性として出てくる言説として「高麗でも武人政権が成立していたのだから、高麗も遅れているではないか」という批判が出てくるかもしれない。これに対しては「だから?」としか言いようがないわけだ。高麗の後進性を指摘した所で、日本が後進性を持っていなかったことにはならない。「他人を批判したからと言って自分の正当性が証明されるわけではない」という、小学生の作文の基本で学ぶようなことを押さえていない議論に関しては、小学生以下という対応をするしかないだろう。もちろん高麗の武人政権と日本の鎌倉幕府との比較は研究対象としては非常に興味深い問題ではある。
幸いにして鎌倉幕府論には、こういう訳の分からないからみ方をして足止め効果を発揮させる人々がいない。
次回には「鎌倉幕府はなかった」という荒唐無稽なトンデモ説と、「1192年はないよね」という「妖怪どっちもどっち」を検証しよう。もちろん鎌倉幕府論においては「妖怪どっちもどっち」という訳の分からないデムパは実在しない。