「史料が原文で見たいところ」というリクエスト

鎌倉幕府の史料を原文で見たいところ、という現実にはありもしないリクエストに無理やり答える形で、鎌倉幕府側の史料を原文で紹介する。今までも取り扱ってきたが、今までの史料に比べていろいろ言及できる史料を出してみる。原文の史料を読むために必要な情報はどんなものか、ということの参考に。

為異賊警固、所下遣兼時・々家
於鎮西也。防戦事、加評定、一味同心、
可運籌策。且合戦之進退。宜随
兼時之計。次地頭御家人并寺社
領・本所一円地輩事、背守護人
之催促、不一揆者、可注進。殊可有
其沙汰之由、可相触薩摩国
之状、依仰執達如件。
 正応六年三月廿一日  陸奥守(花押)
            相模守(花押)
  嶋津下野三郎左衛門尉殿

この史料がモンゴル戦争(いわゆる元寇)関連の史料であることは「異賊警固」の言葉で分かる。
次に書止文言が「依仰執達如件」となっていることから、この文書が「関東御教書」であることもわかる。「関東御教書」とは限時的効力の文書で、差出者の意図が受取者に伝われば、その文書の効力は失われる用途に使われる。この文書の場合、「兼時・々家」を鎮西に遣わすという差出者である「陸奥守・相模守」の意図が受取者である「嶋津下野三郎左衛門尉」に伝われば、それでこの文書の効力は失われる。ちなみに「文書」というのは特定の対象に伝達する意図をもってするところの意思表示の所産であり、必ず差出者と受取者がいる。
まずはこの文書が出された時期であるが、「正応六年」というのは西暦では1293年、八月五日に永仁に改元されている。四月には大地震があり、その混乱に乗じた平禅門の乱で実力者であった平頼綱が粛正されている。我々はともすればモンゴル戦争は文永の役弘安の役の二回だけしか考えないし、神風=台風で撤退したということも手伝って、弘安以降の元の動きはあまり知られていないが、前年の七月に日本の商船に元の燕公南が託した牒状(外交文書)が到来し、幕府はその対応として北条一門に軍事指揮権を附与して遣わすことに決定していたのである。三月七日には北条兼時が、四月八日には名越時家がそれぞれ派遣されている。
差出者の「陸奥守」は連署北条宣時(1238〜1323)で従四位下、「相模守」は九代執権の北条貞時(1272〜1311)で同じく従四位下。ただ貞時の叙任が正応元年、宣時が正応二年なので、貞時のほうが上に来ている。「日下」と言われる、日付の下の部分は下位者が署名する習わしだが、執権と連署では官位が下のものが日下に署名することになっており、文書をみるだけではどちらが執権で、どちらか連署か分からないので注意しなければならない。
北条貞時は注釈の必要もないであろう。北条時宗の子で、14歳で父の死を受けて得宗の地位と執権に就任、ほどなく霜月騒動安達泰盛を討伐し、平頼綱が政務を掌握する。1293年に平禅門の乱で頼綱を粛正した後は従弟の師時と宗方を重用し、実権を掌握する。1297年に越訴の停止と貸借関係訴訟の不受理、御家人に対する非御家人の債権の放棄を命じるいわゆる「永仁の徳政令」を発布する。1301年ハレー彗星の出現によって出家するが、その後も幕政に影響力を維持するが、北条宗方が反乱を起こした嘉元の乱以降、幕政から遠ざかる。
北条宣時北条時政の子の北条時房の子孫の大佛家。『徒然草』で北条時宗と味噌を肴に酒を飲んでいた人。貞時の時に連署となる。平頼綱と組んでいたと指摘されるが、平禅門の乱では頼綱を粛正する側に回り、永仁の徳政令の時には子の宗宣を六波羅の執権探題として送り込む。1301年、ハレー彗星の出現を契機に出家して幕政の表舞台から退場するが、嘉元の乱で宗宣が活躍し、連署から11代執権に就任し、大佛家の最盛期を迎えることになる。
受取者の「嶋津下野三郎左衛門尉」は島津忠宗(1251〜1325)。薩摩・大隅・日向にまたがる近衛家領荘園の島津荘の荘官惟宗忠久が任命され、島津を名字とするようになった家で、忠宗の父の久経の時代に九州に在住するようになる。もちろんモンゴル戦争の関連である。
内容は大きく分けると二つに分かれる。
前段。

為異賊警固、所下遣兼時・々家於鎮西也。防戦事、加評定、一味同心、可運籌策。且合戦之進退、宜随兼時之計。

読み下し

異賊警固のため、兼時・時家を鎮西に下し遣わすところなり。防戦の事、評定を加え、一味同心して籌策をめぐらすべし。且つ合戦の進退はよろしく兼時の計らいに随うべし。

文中の「兼時」は北条兼時(1264〜1295)、「時家」は北条時家(生没年未詳)。兼時は北条時頼の子の宗頼の子、時家は名越家の名越時章の孫で名越公時の子。時章は二月騒動で北条時宗に殺されているが、冤罪であったことが分かり、子の公時の子孫は引付頭人などを務めた。これはこの二人を鎮西探題として派遣する、というもので、兼時は六波羅探題北方からの転任、時家は鎮西赴任以前は何をしていたか明らかではない。
合戦の指揮権は兼時が掌握していたことがこの史料から分かる。兼時の父宗頼は長門守護を務めた。もちろん「異国警固」のためである。宗頼は早世するが、子の兼時も播磨守護として「異国警固」に携わり、その後は六波羅探題を経て鎮西に赴任した。1295年に鎌倉にもどり、評定衆に就任するがほどなく死去。
後段

次地頭御家人并寺社本所一円地輩事、背守護人之催促不一揆者、可注申也。殊可有其沙汰之由、可相触薩摩国中之状、依仰執達如件

読み下し

次に地頭御家人并びに寺社本所一円地の輩の事、守護人の催促に背き一揆せざれば、注申すべきなり。殊にその沙汰有るべきの由、薩摩国中に相触るべきの状、仰せによって執達件の如し

この部分で一番注目されるのは「寺社本所一円地輩」も「守護人之催促」の対象になっていることである。守護の職権はいわゆる「大犯三カ条」つまり大番催促、謀反人の検断、殺害人の検断であったが、これは「大番催促」の一類型である。大番役はもともとは御家人の責務であったが、ここでは「寺社本所一円地輩」も対象になっていて、御家人に限定されたものではなくなっていた。「一円地」とは他の支配領有関係がなく、単一の領主によって支配されている土地のことであるが、「寺社本所一円地」というのは、「寺社」もしくは「本所」=荘園領主が単一で支配している土地のことである。かいつまんで言えば地頭が設置されていない土地のことを指す。鎌倉幕府は地頭を指揮監督する権限を持つが、地頭が設置されていない荘園公領に対しては支配は及ばなかった。実際には圧倒的な武力を保持しているのが鎌倉幕府ということもあって、争い事が起こると実際問題として幕府に頼らなければならない、という実情はあったものの、幕府が直接に寺社本所一円地の住人を動員する権限はなかったのである。しかしモンゴル戦争による戦時体制の中で、寺社本所一円地の住人、つまり非御家人にまで動員の範囲を広げたのである。しかも守護の動員に従わなければ、処罰も辞さない、という強行姿勢であり、幕府の軍事動員権が全国に広がる過程を示している文書である。