「元寇」は北条軍の侵略に対する自衛戦争(笑)

もちろんネタ。まじでこれを主張する人がいたらまじで心配(笑)。陰謀脳全開、電波ゆんゆん反日工作員、何とでもレッテル貼り放題。というかボーガスネタか。
元寇」というのはもちろん元・高麗連合軍が九州地方に襲来したいわゆる「文永の役」「弘安の役」を中心とする「モンゴル戦争」と現在呼称されている歴史上の事件。元軍が日本の領土にやってきて、対馬壱岐で守備軍を全滅させ、おそらく民間人も多く巻き込まれ、博多が炎上した「文永異国合戦」、博多湾に「元寇防塁」と後世呼称される要塞を構築して元・高麗連合軍を防ぎ、台風によって被害を受けた元・高麗連合軍を追撃して退却せしめた「弘安異国合戦」。何となく「神風」のイメージが強いが、文永異国合戦においては神風の実在が疑問視され、弘安異国合戦でも台風で大きな被害を受けたが、その後の追撃戦も注目される。まぎれもなく日本に襲来した元・高麗連合軍が攻撃してきたのであり、明らかに「防衛」しているのは日本で、侵略しているのは元なのだが、これを逆転させる、という力技を思いついた。さすが反日サヨク9条病九条病ブロガーだ(笑)
まずは「日本」というものを解体する。当時の日本は鎌倉幕府と朝廷が統治していた。マルクス主義歴史学者の黒田俊雄は権門体制論を唱え、幕府も朝廷も「日本」という単一の国家の中の「権門勢家」として日本の国政を分担していた、とみなす。これを採用してはいけない。日本は朝廷と鎌倉幕府が対立し、内戦状態にある、ということを強調する必要がある。内線の中で朝廷と幕府がお互いに民衆を殺戮しているデモサイトを行っている、と主張し、そこへの侵略は「平定」と美化される。
以下、「元寇」は北条軍の侵略に対する自衛戦争、という暴論を構成してみる。重ねて注意していただきたいが、でたらめな歴史像であり、いささかの歴史学的な意義もない。いわばだましのテクニックである。ボーガスネタでしかない。一応だましのテクニックを使った所は色を変えておいた。参考にしていただきたい。

元寇」否定論がまず注目すべきは承久の乱だ。承久の乱鎌倉幕府が朝廷を武力で圧倒した戦いだが、間違っても北畠親房神皇正統記』のように北条泰時を褒めてはいけない。親房は後鳥羽上皇がバカだった、と結論づける(「一往ノイハレバカリニテ追討セラレシハ、上ノ御トガトヤ申ベキ)が、それは天皇制を絶対視する国士様がとるべき道ではない。北畠親房のような反天皇制サヨクは殲滅されなければならない(笑)後鳥羽上皇順徳上皇土御門上皇を配流するという許しがたい暴挙(笑)を行う鎌倉幕府の存在をまずは押さえる必要がある。これが「元寇」否定論の大事な一歩だ。
上皇配流のうえ、天皇を引きずり下ろすという暴挙を敢えて行った北条義時の次は、皇位に介入する北条泰時を非難しなければならない四条天皇が急死した後、順徳上皇の皇子と土御門上皇の皇子が皇位継承の候補者となった。朝廷では9条九条道家が順徳皇子を推挙したが、順徳上皇がまだ生存していて、順徳上皇の影響力復活を恐れた北条泰時土御門上皇の皇子の践祚を強行する。朝廷は皇位すら鎌倉幕府の意向に従わざるを得ないのだ。これを反天皇制サヨク北畠親房は「天照の代理である泰時の行い」と持ち上げる(「鎌倉ノ義時ガ子、泰時ハカラヒ申テコノ君ヲスヘ奉リヌ。誠ニ天命也、正理也。土御門院御兄ニテ御心バヘモオダシク、孝行モフカクキコエサセ給シカバ、天照太神ノ冥慮ニ代テハカラヒ申ケルモコトハリ也」)。これを認めてはならない。泰時を断固糾弾するのが国士たる者の採るべき道だ(笑)
天皇をないがしろにする反天皇制サヨク鎌倉幕府(笑)が日本人民を殺戮するのは必然である(笑)源平合戦で数万人(笑)を殺戮しているしかも同族の木曽義仲、弟の源義経源範頼源頼朝は殺している奥州藤原氏の討伐では陸奥・出羽二国は鎌倉幕府の植民地とされ、収奪の限りが尽くされた(笑)承久の乱では三上皇配流以外に朝廷の公家も処刑されている。京方についた武士は残らず処刑されている。
北条泰時の孫の北条時頼三浦泰村をだまし討ちにして族滅し、さらに三浦氏と親しい千葉氏、毛利氏を滅ぼしている。当時の日本人を一番たくさん殺していたのは鎌倉幕府なのだ(笑)。
時頼の子の北条時宗は兄の北条時輔と一族の名越時章、教時を無実の罪で殺害し、さらに関係者多数を殺し、後嵯峨上皇の皇子で当時の亀山天皇の兄にあたる将軍宗尊親王を不可解な理由で追放している。北条時宗反天皇制サヨクであることは論をまたないであろう(笑)また時頼・時宗父子は特に多くの無実の人々を殺戮している(笑)
さらに北条時宗反天皇制サヨクたる特質が強く出たのはフビライからの国交樹立を求める国書を、朝廷は返事を出そうとしたのに、時宗は朝廷を威圧して黙殺させたことに現れている。外交権すら朝廷から奪おうとする時宗の暴虐ぶりには慄然とする他はない(笑)
特に注目すべき点は、亀山天皇以下の朝廷は反元闘争をしていた三別抄の救援要請は無視したのに、直後にやってきた元の使者には再度返事を出そうとしている。従来考えられていたよりも朝廷はアジアの情勢を理解し、対応しようとしていたのである。幕府は南宋の亡命僧を多く受け入れていた。彼らが反元的な考えを煽るのは必然である。
さて、文永異国合戦について日蓮は次のように説明する。
「守備隊は逃げ、残された民衆は手に穴を開けられ、つながれて連行された。これは侵略者を平定するために御仏がモンゴルの皇帝の中に入って行わせられたのである」(「去文永十一年大歳甲戌十月ニ、蒙古国ヨリ筑紫ニ寄セテ有シニ、対馬ノ者、カタメテ有シ總馬尉等逃ケレハ、百姓等ハ男ヲハ或ハ殺シ、或ハ生取ニシ、女ヲハ或ハ取集テ、手ヲトヲシテ船ニ結付、或ハ生取ニス、一人モ助カル者ナシ、壱岐ニヨセテモ又如是、船オシヨセテ有ケルニハ、奉行入道豊前前司ハ逃テ落ヌ、松浦党ハ数百人打レ、或ハ生取ニセラレシカハ、寄タリケル浦々ノ百姓共、壱岐対馬ノ如シ(中略)此国ノ者ハ、一人モナク三逆罪ノ者也、是ハ梵王帝釈日月四天ノ、彼蒙古国ノ大王ノ身ニ入セ給テ責給也」(「高祖遺文禄」『伏敵編』所収。『鎌倉遺文』一一八九六号文書と同じ。)
これをみれば、元・高麗軍が日本列島に派遣されたのは現地の治安維持のためであることが分かる(笑)しかも幕府軍は日本国民保護の義務も果たさず逃げてしまい、その結果対馬壱岐の住民は銭湯戦闘に巻き込まれて多数が殺された。この責任は住民を置き去りにして逃亡した幕府軍が負うべきであって、住民保護よりも敵兵の殲滅を優先した元・高麗連合軍が非難される謂われは全く無い(笑)
さらに言えば文永異国合戦の後、時宗政権は高麗への出兵を計画している。これはまさに侵略でしかない(笑)。また時宗政権は元からの使者を惨殺している。国際法は片務的に守る義務はない。幕府が国際法を無視して使者を殺害した以上、元も国際法を守る必要などない(笑)
時宗死後には霜月騒動安達泰盛や対元戦争の指揮官であった少弐景資をはじめとした多数の死者を出し、平禅門の乱でも時の権力者平頼綱以下多数の人々が殺され、嘉元の乱では時宗の子どもの貞時と甥の師時・宗方で血みどろの戦いが展開され、連署北条時村と宗方が殺される。鎌倉幕府の歴史はまさに内紛と殺戮の歴史なのである
フビライの戦争は、フビライの孫が派遣した一山一寧に影響を受けた夢窓疎石の弟子にあたり、なおかつ亀山天皇の孫に当たる後醍醐天皇が、北条時宗の孫にあたる北条高時を滅ぼすことによって成功に終わった。同じく夢窓疎石の弟子であった足利尊氏によって元との間に天龍寺船が運行され、フビライの求めた日本と元との関係が構築されたのである。まさしく「元寇」は鎌倉幕府による元への侵略行為に対する自衛戦争だったのである。従って「元寇」も「壱岐対馬の虐殺もなかった」のだ(笑)

これは実は「史実」レベルでは嘘をついていない。引用している史料は『神皇正統記』も「日蓮書状」(いわゆる「高祖遺文禄」)も解釈も含めてほぼ正確にしている。他のものも概ね史実通りである。にも関わらずここまで歪曲された歴史像になるのはなぜなのだろうか。これは史実相互の関連を捏造しているからである。従って一つ一つの史実は正しいのに、全体的な歴史像はほぼ捏造となってしまう。一番典型的な歪曲は、やはり「幕府が多くの民衆を殺しているから、元の攻撃は侵略ではない」という強弁だろう。「いや、元は日本の領域内に侵入し、日本人を殺しているではないか」という至極真っ当な言い分に対しては、呆れるような言い抜けも一応用意している。「博多における利権と日本列島の治安維持のために幕府と戦争した」うーん、われながらすごい詭弁だ(笑)。
もう一つ使っているやり口は、自分に都合の良い史実のみをとりあげ、自分にとって都合の悪い史実は無視している点である。「日蓮書状」を使って「日本の守備軍は逃亡した」という印象操作を使っているのであるが、ここでは「八幡愚童訓」は無視。
嘘をつかったところは色を変えておいた。色が変わっていない所は基本的に嘘をついてはいない。しかし赤字の部分だけでこれだけ歴史像は歪んでしまうのだ。
いや、そもそも鎌倉幕府源平合戦を初めとする戦いで多くの人民を殺したことと、元が責めてくることは一切関係ない。しかしこの関係ない二つの事実をあたかも関係あるかのように結びつけて語ることが、最大のだましのテクニックなのである。
歴史的叙述をする時に自分の好みのように書いていて決してよい訳ではない。歴史叙述にはそれ相応の手続きが必要なのである。史実を好き勝手に解釈して、好き勝手な歴史像を書いてしまうのでは、歴史学の意味がなくなってしまう。歴史は物語ではない。もし歴史が「物語」であるならば、上にかいたような歪曲された歴史像もあり得ることになる。