金沢貞将は誰を威圧したのか、再論

一応かつて触れた話(「2008-09-07 - 我が九条」「2008-09-08 - 我が九条」)の蒸し返し。
金沢貞将(かねざわさだゆき)は鎌倉幕府15代執権金沢貞顕の嫡子。評定衆、三番引付頭人を経て1324年、正中の変の動揺さめやらぬ京都に六波羅探題南方として着任した。貞将の着任は二つの点で異様だった。まず一つは南方である彼が「執権探題」として着任したこと。もう一つは彼が5000人の軍兵を引き連れてきたこと。
一つ目の問題であるが、六波羅探題は北方と南方の二人が置かれていた。両方の六波羅探題の職務はほとんど変わらないが、朝廷との交渉はもっぱら北方が行い、朝廷との交渉を行なう探題を「執権探題」と呼んでいた。北方は北条重時の次男の北条時茂の子孫が代々世襲してきた。正中の変当時の北方は常葉範貞。在京経験も長く、家格も高く、正中の変を解決した手腕も高く評価されている。にも関わらず、あえて「執権探題」を新たに送り込んだ背景にはただならぬ事情が働いていたに違いない。金沢貞顕は当時は連署。執権で得宗北条高時は病勝ちで、貞顕は病弱な高時を補佐しながら、というよりは事実上幕政を取り仕切っていた。金沢家は常葉家よりも家格は低いが、幕政の中心を占めていたのである。
貞将が引き連れた軍勢は5000。普通は1000人らしいから、五倍の軍勢である。何かを威圧しにきた、としか考えようがない。一般的には直前に倒幕計画が発覚し、頓挫した後醍醐天皇を監視するため、と考えられるが、花園上皇が「先例に超過」と日記に書き記す所をみると、貞将の行動に威圧されているのは後醍醐よりも花園のような気もする。貞将の父貞顕と花園は後宇多法皇の女御永嘉門院をめぐって対立していた。花園は貞顕のことを「貞顕張行」と書き残している。一方貞顕は露骨に花園の属する持明院統に肩入れする鎌倉幕府政所の二階堂道蘊のことを「道蘊張行」としている。
後醍醐天皇がもし正中の変の責任をとって退位することになれば、次の天皇邦良親王、皇太子が量仁親王となる。邦良は後醍醐の兄の後二条の子、量仁持明院統後伏見上皇の子。つまり国よりは大覚寺統で、量仁持明院統。加えるに邦良は健康に不安があったようで、二年後には死去している。そうなると量仁親王皇位が早く回ってくる。持明院統の望みはそれであったろう。金沢貞顕持明院統への早期の皇位継承は望ましくない、と考え、持明院統を威圧するために5000の軍勢を貞将に付けて送り、さらに貞将を執権探題の地位に押し込んだのではなかろうか。しかし貞顕の願いはむなしく1326年3月に邦良は死去し、幕府は量仁立太子を決定する。同月貞顕も15代執権に就任するが、高時の弟の北条泰家とその外戚の安達時顕の不満を買ったか、わずか十日あまりで辞任、出家に追い込まれ、1330年に貞将も六波羅から鎌倉に帰り、引付頭人に就任する。後醍醐は倒幕の意思を固め、1331年元弘の変が起きる。あからさまに倒幕を企てた後醍醐をもはやかばう必然性がなくなった金沢家は新たに即位した光厳天皇量仁親王)の皇太子に邦良親王の皇子の康仁親王を立てることでバランスを確保する。しかし後醍醐天皇による倒幕計画で幕府は滅亡し、貞将は新田義貞の軍勢に駆け入り壮絶な戦死を遂げ、貞顕も高時とともに自害して金沢氏は滅亡する。
ちなみに金沢貞顕の執事であった倉栖兼雄は、後宇多法皇に仕えていた吉田兼好の兄にあたるという説もある。(永井晋氏によれば「別人とするのが常識」ということ。『北条氏系譜人名辞典』真人物往来社の「倉栖兼雄の項目」)。そういう意味からも貞顕は大覚寺統よりだったのだろう。大覚寺統が反幕という先入観は質さなければならない。
追記
これは他意は全く無い(笑)。いや、実際はあったはずなんだけど(笑)、忘れてしまった。いくら思い出そうとしても思い出せないので、もう「他意はない」」モードで書いてみた。にしても「他意」は何だったかな?