隠蔽することと触れないこと−文永の役と吉田経長の幕府批判−

鎌倉時代における「虐殺」といえば、壱岐対馬の虐殺であろう。元・高麗連合軍が対馬壱岐の守備部隊を殲滅して博多に来襲した「文永の役」「弘安の役」のなかで起こった、と想定されている事件である。実際はそれを裏付ける客観的な史料は存在しない。しばしば引用されるのは「高祖遺文禄」として『伏敵篇』に収載されている史料だが、これは日蓮佐渡で見聞したことを信者に書き記した書状で、しかもそれは「此国ノ者ハ、一人モナク三逆罪ノ者也、是ハ梵王帝釈日月四天ノ、彼蒙古国ノ大王ノ身ニ入セ給テ責給也」ということを説明するために日蓮が書いたものである。日蓮は「此国ノ者ハ、一人モナク三逆罪ノ者」であるがゆえに「梵王帝釈日月四天ノ、彼蒙古国ノ大王ノ身ニ入セ給テ責給」という認識を持っている。その因果応報が「百姓等ハ男ヲハ或ハ殺シ、或ハ生取ニシ、女ヲハ或ハ取集テ、手ヲトヲシテ船ニ結付、或ハ生取ニス」という、有名な記述なのである。しかもその前提には「対馬ノ者、カタメテ有シ總馬尉等逃ケレハ」と守備隊が逃亡したせいであり、元・高麗軍のせいではない、とされているのである。もちろんこれを真に受ける人はいない。現実には「總馬尉」こと宗馬允助国他十二人は戦死している(八幡愚童訓)。壱岐でも「奉行入道豊前前司ハ逃テ落ヌ」とあるが、そもそも「奉行入道豊前前司」こと少弐資能が逃げた、という記録はない。壱岐には平景隆以下百人あまりがいたが、自害した(八幡愚童訓)。そして「平戸・能古・鷹島辺の男女多く捕らる」(八幡愚童訓)。鎌倉幕府の文書である「関東御教書」で「文永の役」関係で『鎌倉遺文』に収載されているのが一一七四一〜一一七四四号文書。そのうちの一一七四一号文書は『日本史史料[2]中世』(岩波書店)にも載せられているが、署名者の「武蔵守」を『鎌倉遺文』『日本史史料[2]中世』とも「北条長時」としている。もちろん当時連署であった北条義政が正しい。そこではほぼ同じ文言が使われている。「蒙古人襲来対馬壱岐、既致合戦之由覚恵所注進也」(一一七四一号文書、武田信時あて)、「蒙古人襲来対馬壱岐、致合戦之間、所被差遣軍兵也」(一一七四二号文書、大友頼泰あて)というパターンがあり、後者は少弐資能と並んで「鎮西奉行」であった大友頼泰あて、前者は他の御家人あてのものだろう。「関東御教書」からは非戦闘員がどのような状況にあったのかを推測するのは難しい。この文書が発給されるには、当然評定が開かれ、そこでの決定事項が「関東御教書」として、将軍の意を奉じた執権・連署の奉書という形で出される。その評定の記録が「関東評定伝」である。そこには「文永十一年十月五日、蒙古異賊寄来、著対馬島、討少弐入道覚恵代官藤馬允。同廿四日、寄来太宰府、与官軍合戦。異賊敗北」。以上のように、日蓮書状の「百姓等ハ男ヲハ或ハ殺シ、或ハ生取ニシ、女ヲハ或ハ取集テ、手ヲトヲシテ船ニ結付、或ハ生取ニス」というのがあまりにも印象が鮮烈なのだが、いささか怪しい所がある。しかしだからといって壱岐対馬で何らかの大損害があったことは日本側の史料でもある程度は分かる。しかしそれだけではない。「東国通鑑」には元・高麗側の史料が収められている。「忽敦以所俘童男女二百人、献王及公主」。つまり二百人の捕虜が奴隷として献上されたのである。日本側の史料に依拠しなくても、日本側に被害があったことは明らかなのである。
一方、この事態について『吉続記』には「九国隕滅。可憐。是関東政道之緩怠也。衆口囂々。但可秘云々」と書かれている。筆者の吉田経長は亀山上皇の信任厚い公家。亀山上皇は当初から元・高麗との開戦には消極的だった、という考えもある(奥富敬之『北条時宗』角川撰書)。吉田経長の記述をみれば、案外朝廷は元・高麗との「和親」を考えていたのかもしれない。ともあれ、幕府の政道が悪い、という意識はあった。
問題は壱岐対馬における戦闘を論じる際に、吉田経長の幕府批判をとりあげるべきか、ということだ。経長の幕府批判をとりあげる論点はあってもいい。しかし取り上げる必要がない、という見解も当然ある。しかしここで経長の幕府批判をとりあげないことを「隠蔽している」という論者がいたら、その論は単なる言いがかりだろう。「取り上げない」ことと「隠蔽」することの間には大きな断絶がある。「隠蔽」する、というのは、例えば経長の幕府批判を「ない」と強弁することだ。経長の幕府批判に触れないことだけを以て「隠蔽している」というのは、ためにする議論であり、言いがかりであり、卑劣な印象操作である。触れていないのが不満ならば、それについて焦点を当てた実証的研究を提示すればいいことであって、そのことを通じて経長の幕府批判に触れない研究の弱点をあぶり出す努力をしなければならない。その努力をせずに「隠蔽している」という印象操作にはげむのは知的に不誠実である。
幸いなことに鎌倉幕府論においては、「取り上げない」ことを以て「隠蔽している」と印象操作にはげみ、そのことによって足止め効果を生むような言説を弄する者はいない。