違星北斗は同化を強く指向したか

Mukkeさん(「」)経由。

あー,このひと,アイヌコミュでも大活躍してるなー。「アイヌとして,日本人への同化を強く志向した違星北斗さんという素晴らしい方」(原文ママ)という表現を見た時には殺そうかと思ったよ。

多分「このひと」が依拠したのは違星北斗の次の文だろう。

吾人は自覚して同化することが理想であって模倣することが目的ではない。

あるいはこれか。

「日本臣民として生きたい願望」であるのだ。

この文は違星北斗が創刊した雑誌『コタン』創刊号の中の違星北斗の「アイヌの姿」という論説の一部である。しかしこれはまさに「都合のいい所を切り出した」だけのものであるのは、「アイヌの姿」の文章を読むだけでも「このひと」の言う「アイヌとして、日本人への同化を強く志向した違星北斗さんという素晴らしい方」というのが全くの嘘であることが分かる。

私は小学生時代同級の誰彼に、さかんに蔑視されて毎日肩身せまい学生々活をしたと云ふ理由は、簡単明瞭「アイヌなるが故に」であった。現在でもアイヌは社会的まゝ子であって不自然な雰囲気に包まれてゐるのは遺憾である。然るにアイヌの多くは自覚してゐないで、たゞこの排斥や差別からのがれようとしてゐてのがれ得ないでゐる。即ち悪人が善人になるには悔あらためればよいのであるが、アイヌがシャモになるには血の問題であり、時間の問題であるだけ容易ではないのである。こゝに於て前科者よりも悪人よりも不幸であるかのように嘆ずるものもある。近ごろのアイヌはシャモへシャモへと模倣追従を事としてゐる徒輩が亦続出して、某はアイヌでありながらアイヌを秘すべく北海道を飛び出し某方面でシャモ化して活躍してゐたり、某は○○○○学校で教鞭をとってゐながら、シャモに扮してゐる等々憫むべきか悲しむべきかの成功者がある。これらの贋シャモ共は果して幸福に陶酔してゐるであろうか?否ニセモノの正体は決して羨むべきものでない。先づ己がアイヌをかくしてることを自責する。世間から疑はれるか、化けの皮をはがれる。其の度毎に矛盾と悲哀のどん底に落つるか、世をはかなみ人を恨む。此の道をたどった人の到達点如何に悲惨であるかは説明するまでもないことである。吾人は自覚して同化することが理想であって模倣することが目的ではない。いはんやニセモノにおいておやである。

「自覚して同化」と「同化」とでは意味が違う。「日本人への同化を強く指向した」というのは違星北斗流の「自覚して同化」なのか、それとも違星が批判した「模倣」「ニセモノ」なのか。もちろん「日本人への同化を強く指向した」というのは違星のいう「自覚して同化」というのであろう。
違星はもう一つ「日本臣民としていきたい願望」を書く。
これについて違星は次のようにいう。

同化の過渡期にあるアイヌは嘲笑侮蔑も忍び、冷酷に外人扱ひにされてもシャモを憎めないでゐる。恨とするよりも尚一層シャモへ憧憬してゐるとは悲痛ではないか。併しながら吾人はその表現がたとひ誤り多しとしても、彼等が衷心の大要求までを無視しようとするのではない。(中略)今にアイヌは衷心の要求にめざめる時期をほゝ笑んで待つものである。

ここの「衷心の要求」とは何か。これに続くところで違星は次のようにいう。

「水の貴きは水なるが為めであり、火の貴きは火なるが為めである」(権威)
そこに存在の意義がある。鮮人が鮮人で尊いアイヌアイヌで自覚する。シャモはシャモで覚醒する様に、民族が各々個性に向って伸びて行く為に尊敬するならば、宇宙人類はまさに壮観を呈するであらう。嗚呼我等の理想はまだ遠きか。
シャモに隠れて姑息な安逸をむさぼるより、人類生活の正しい発展に寄与せねばならぬ。民族をあげて奮起すべき秋は来た。今こそ正々堂々「吾れアイヌ也」と呼べよ。

さらに続ける。

アイヌ! そこに何の気遅れがあらう。奮起して叫んだこの声の底には先住民族の誇まで潜んでゐるのである。この誇をなげうつの愚を敢てしてはいかぬ。不合理なる侮蔑の社会的概念を一蹴して民族としての純真を発揮せよ。公正偉大なる大日本の国本に生きんとする白熱の至情が爆発して「吾れアイヌ也」と絶叫するのだ。

「公正偉大なる大日本の国本に生きんとする」というのも、「日本人への同化を強く指向した」ということの傍証となるだろう。「公正偉大なる」というのは、「大日本」の現状だろうか。「大日本」は「先住民族の誇」を「なげうつの愚」をアイヌに強いてはいないだろうか。
違星はこの文章を次の一節で締める。

山の名、川の名、村の名を静かに朗詠するときに、そこにはアイヌの声が残った。然り、人間の誇は消えない。アイヌは亡びてなるものか、違星北斗アイヌだ。今こそはっきり斯く言ひ得るが・・・反省し瞑想し、来るべきアイヌの姿を凝視(みつめる)のである。

違星が現実に対峙した「公正偉大なる大日本」の現実を違星自身の短歌の中からいくつかをみておこう。

酒故か 無智な為かは 知らねども 見せ物として 出されるアイヌ
酒故か 無智故かは 知らないが 見世物のアイヌ 連れて行かれた
白老の アイヌはまたも 見せ物に 博覧会へ行った 咄!咄!!
見せ物に 出る様なアイヌ 彼等こそ 亡びるものの 名によりて死ね

いわゆる「人間動物園」の問題である。博覧会に出る「アイヌ」は「動物」のような待遇で見せ物になったのではない。いい待遇で自らすすんで「見せ物」になったのだろう。ここでは「見せ物」に自らなりに行くアイヌに対する違星の視線に注目しておきたい。
次に北斗自身が体験したアイヌに対する和人の視線とそれへの違星の批判。これは同じ『コタン』創刊号の「断想録」の「北斗式笑話二話」より。

北海道土産話を
原始的に粉飾して珍客にこびを売る職業アイヌの話を受売りする
つけたり「アイヌは推理的能力はないネ」「クマと角力とってゐるよ・・・そしてクマに食はれたりクマを喰ったりしてゐるよ」「クマはアイヌの神様の御本尊だ」「もう十年とたったらアイヌは皆んな死に絶えてしまふだらう」などゝ嘘ばっかり云ふ。ウソの方が面白いから拍手かっさいのかんげいだ。
アイヌの土地をワガモノにするにはわけなく出来る。ナニ酒でネごまかしてやるんです」「それからネ、アイヌは馬鹿正直だから鮭を買ふとき・・・初まり・・・テ一本づゝごまかすんだよ」と本音をはいて痛快がってゐます。−とは本当ですか。私はアイヌですが・・・あなたは一枚看板「日本の誇」を、人喰人種のお国へでも忘れてお出になったのではありませんか?

『コタン』創刊号に収められた違星北斗の短歌より。まずは「同化への過渡期」と題された短歌。

悲しむべし 今のアイヌは アイヌをば 卑下しながらに シャモ化してゆく
罪もなく 憾もなくて たゞ単に シャモになること・・・・・悲痛なるかな
アイヌの中に 隔世遺伝の シャモの子が 生れたことを 喜ぶ時代
不義の子でも シャモでありたい その人の 心の奥に 泣かされるなり

「赦し得ぬこゝろ」と題された短歌

アイヌ行く 隔離病舎だ 電話など 要らぬというた 町会議員
今もなほ、 アイヌと笑ふ シサムの アイヌに劣る 心のみじめさ
赦したい、 あゝ赦したいと 思へども、 え許し得ぬ 悲しいこゝろ
アイヌなる 故に誇を 持つわれが 淋しく思ふ 憐な心だ

違星北斗の絶筆となった日記。昭和四年一月六日。その二十日後、二十七歳で死去する。

勇太郎君から今日も八ツ目を貰ふ。

  青春の希望に燃ゆる此の我に
  あゝ誰か此の悩みを与へし
  

  いかにして「我世に勝てり」と叫びたる
  キリストの如安きに居らむ


  世の中は何が何やら知らねども
  死ぬ事だけはたしかなりけり

違星北斗の人生は単純に「アイヌの独立を訴え続けた」とも言えないが「日本人への同化を強く指向した」と言い得るものでもない。違星の「悩み」を深く考えなければならない。