古文書からみた日琉関係2
ふみくはしく見申候、進物ともたしかに受け取り候ぬ、めてたく候、まいねんふねをも人をもあまたさるべく候
永享八年九月十五日
りうきう国のよのぬしへ
文くハしく見申候、しん上の物たしかにうけとり候、めでたく候
永享十一年三月七日 御印判
りうきう国のよのぬしへ
いずれも足利義教から尚巴志への書状。仮名書きが特徴の文書である。前述の通り、一見国内への書状形式の文書に見えるが、年号が付されている点が何よりも特徴である。年号が付せられていることから、これが尚巴志と義教との個人的な要件で出されているのではないことが分かる。これは公的な儀礼関係である。そしていわゆる守護大名宛の御内書とは、年号の有無と漢文か仮名書きかという違いがある。
御内書を挙げておく。
鳥目万疋・座氈二枚・麝香皮一枚到来了、神妙候、太刀一腰・馬一疋(黒駮)之遣候也
十二月三日
太宰少弐殿
これは少弐満貞宛の足利義持御内書である。年号がなく、漢文であることが、琉球国王宛の文書とは異なる。
日本国王が琉球国王に対して仮名書きを使った理由について、考えられるのは、琉球国内の文書事情があるのではないか、と思われる。
「辞令書」と呼ばれる文書がある。琉球国王が発給する任職文書で、原則として平仮名書き、中国年号を使用、「しよりの御ミ事」で始まり、文書の端(右)と奥(左)の上部に「首里之印」という朱印を捺している。琉球では仮名表記が公文書にも使われており、仮名表記が私的なものと考えられてきた日本とは異なる文字体系を使用していたのである。
現存最古の辞令書。1523年のもの。
しよりの御ミ事
たうへまいる
たから丸か
くわにしやわ
セいやりとミかひきの
一人しほたるもいてこくに
たまわり申候
しよりよりしほたるもいてこくの方へまいる
嘉靖二年八月廿六日
これだけでは意味が取りづらいが、「しより」は「首里」、「しほたるもいてこく」が人名である。「たう」は「唐」つまり明、「たから丸」は「宝丸」という船の名前、「くわにしや」は「官舎」、「セいやりとミかひき」は「しほたるもいてこく」が所属する組織名。
漢字に直すと次のようになる。
首里の御命
唐へ参る
宝丸が
官舎は
勢遣富がヒキの
一人シホタルモイ文子に
給わり申し候
首里よりシホタルモイ文子の方へ参る
仮名書きが公的に使われていた琉球に対する配慮が、仮名書きを使用する日本国王側にあったことを示しているように思う。
もう一つ指摘するならば、明年号が使われている。これは琉球の立場から見れば当たり前で、日本国王も明皇帝に送った文書は明年号を使用している。例外は明との勘合貿易を停止した足利義持である。年号についてはまた後で述べる。