古文書から見た日琉関係3

日本国王琉球国王書状。

畏言上
 毎年為御礼、令啓上候間、如形奉捧折紙候、随而去年進上仕候両船、未下向仕候之間、無御心元存候。以上意目出度帰嶋仕候者所仰候。諸事御奉行所へ申入候定可有言上候、誠恐誠惶敬白
   応永廿七年五月六日  代主印

着目点は3つ。
1 漢文で書かれていることである。
2 書出文言「畏言上」や書止文言「誠恐誠惶敬白」に見られるように非常に厚礼で、琉球国王宛の日本国王書状の薄礼と対照的である。
3 日本年号が使われていることである。
1について。
幕府文書では琉球国王宛の文書を除くと仮名書きの文書は見かけない。一方琉球では辞令書などに見られるように仮名書きの文書が使われていた。琉球・日本ともに相手国の文書の形式に合わせていることが目を引く。何度も強調していることであるが、日本国王は少なくとも国内向けの守護大名と同じように琉球国王を遇しているわけではない。日本国王琉球国王の関係を室町殿と守護大名の関係と同一視するのは、琉球と日本との差異を隠蔽し、「同種同文」神話を補強するものでしかない。というよりも、「同種同文」という先入観から、御内書と無理やりに琉球国王宛書状を同一視している、と言っていいだろう。
2について。
明の華夷秩序のもとにおいては、日本と朝鮮がかなり地位が高く、琉球華夷秩序における地位は少し下位に位置づけられている、という側面がある。華夷秩序は「国内」と「国外」という関係ではなく、明の華夷秩序という単一の秩序の中の位置づけを表している。この文書のやり取りで示されている両者の関係は、あくまでも明の華夷秩序内部での両者の地位の関係であり、両者の間に君臣関係があったことを必ずしも示していない。華夷秩序内部での位置づけを、当事者同士の君臣関係に持っていくべきではない。
3について。
日本年号が使われている、ということは、日本国王の時間軸に従うことを意味している。ただ注意すべきは、相手が足利義持である、という点である。義持は朝鮮国王からの回礼使に対しても日本年号を使っていないことを難じる姿勢の持ち主で、明の華夷秩序から離脱した人物である。実際に朝鮮国王からの文書について回礼使宋希蓂は明年号を日本年号に改変することを求められ、断固拒否している。妥協案としての龍集(干支のこと)を使用する案も退けて明年号で押し通しているが、そのことを『老松堂日本行録』で誇らしげに記述しなければならないほどに、年号をめぐる状況は厳しかったのである。琉球国王からの文書に対しては、当然配慮は払われているだろう。問題はそれが義持の手に渡る時に改ざんされているのか、あるいは起草の段階で既に配慮がなされているのか、ということであるが、起草の段階から日本年号になっていた可能性が高い。
その理由を手短に述べておくと、琉球の外交文書は、明向けの文書は明人が、日本向けの文書は日本人が、それぞれ作成していた。だから日本国内の事情を熟知している日本人の外交文書作成者、具体的に言えば南禅寺の禅僧が、日本の要請に合わせて作成している文書が、日本年号、さらには日本に対して厚礼であることは当然である。