古文書から見た日琉関係4

琉球室町幕府管領の間の文書のやり取りをみておく。

一 金襴一端(表)襦子二端(黒)香十斤給候、悦入候、御太刀一腰、馬一疋進之候、事々期信候、恐々
   十一月廿日
   琉球国代主殿

まずは琉球国王管領書状。管領細川持之足利義教の後半の管領である。斯波義淳の後を引き継いで永享4(1432)年に管領に就任し、嘉吉2(1442)年に辞任し、ほどなく死去した。足利義教の暴政を止めることができず、孤立化した赤松満祐が起こした嘉吉の乱では殺される義教を目の前にして何もできず、ほうほうの体で赤松邸から逃げ出し、求心力を失って失脚した管領である。応仁・文明の乱の当事者細川勝元の父に当たる。
年号がなく、内容は私的な内容。典型的な書状である。礼状であろう。

一 襦子五端給候、喜入候、仍太刀一腰、小袖一重(唐織、□絲)進之候、事々期後信候、恐々
  同(十一月二十日)
  王将軍(琉球国執事也、始而御礼被申也)

次に琉球国執事宛管領書状。「王将軍」について「琉球国執事也、始而御礼被申也」と説明が付されていることを鑑みるに、「王将軍」からの書状は初見だったのだろう。逆に言えば「琉球国代主」については既知の概念だったのだろう。