権門体制論の問題点

もう一つの問題点、つまり権門体制論自体が孕む問題点であるが、これは私の手に余る問題で、黒田俊雄の研究が権門体制論の他に荘園制論・顕密体制論・身分制論など多岐にわたる。私自身の能力の範囲で一つ指摘するならば、権門体制論における国家論の不在である。権門体制論が中世国家論であることは論を俟たないが、それにも関わらず国家論が不在である。「日本」という「国家」が前提されている。その結果、一つのナショナルアイデンティティに日本列島の歴史を編み上げることになってしまっているのである。
そうなってしまった原因は、黒田俊雄の理論そのものにある。黒田が自己の理論を構築する時に依拠したのは個別の史実ではあるまい。マルクス主義に代表される史的唯物論の概念である。史的唯物論を駆使して黒田は中世国家の前提となる権門体制論とその関連する理論を構築してきたのだろうと思われる。そして他ならぬマルクス主義そのものの国家論が脆弱なのである。マルクス主義が経済的下部構造にその理論構築の努力を傾注するあまりに、上部構造に関する理論構築はおろそかになった。特に日本に導入されたマルクス主義はその傾向が強いロシアマルクス主義が導入された。そのためもあってか国家に関しては支配階級が自己の利害を貫徹するために作った暴力装置としての側面が強調される、レーニンの国家論が導入された。国家がレーニンの主張するように暴力装置であるならば、鎌倉幕府は一つの国家であることには何の疑いもない。その支配を貫徹させるためにむき出しの暴力に加えてイデオロギー装置によって被支配階級を支配し、あたかも支配階級と被支配階級の階級対立の当事者から離れて、より高次の調停者として立ち現れるのである。「撫民」というキーワードで表される鎌倉幕府の動きはその具体的な現れであろう。
黒田もまた国家の本質を組織された暴力装置である、という立場に立っている。その一方で黒田は日本を一つの国家にまとめようとした。そのための理論が権門体制論である。しかし佐藤進一氏(存命なので敬称付き)や網野善彦(故人となったえらい人なので敬称略)による東国国家・西国国家、あるいは地域史の論点から「国家とは何か」という問いを突きつけられたのである。その問いへの回答が1986年に発表された「中世における地域と国家と国王」だと私は考えている。ここで黒田は増田四郎の『社会史を読む』(1981年)における「世界帝国」と「国民国家」と「くに」の三類型に着想を得て、「世界帝国」と「封建王国」と「くに」に類型化する。
黒田は封建王国について次のようにまとめる。

それは国王を頂点とする政治的形成体であり、領域のなかの土地と人民を支配し封建法(広い意味での)によって統治し、当然国境をもつ。(『黒田俊雄著作集 第一巻 権門体制論』266ページ、以下ページ数のみを示した場合は全て同書)

そして「くに」については次のように述べる。

そして「くに」はそれなりの独立の中世国家として、あるいは世界帝国または封建王国の下部に滞在する“地域”ー〈王国〉(国家)の領域がこの一つまたはいくつかと対応するとは限らないーとして存在する。(266ページ)

そして「〈(封建)王国〉を中世“国家”の次元の基準とすることで、地域と国家を区別する手掛かりとする」と述べる。
そして鎌倉幕府を「実質的」には一個の中世国家とみなす見解に同調することができない理由として
「なによりも鎌倉幕府という政権ないしそれを中核とする「東国」(関東)が、前述の〈封建王国〉(国家)としての基本的要件を欠くとみられるからである」
と述べ、

端的にいえば、鎌倉幕府の公式見解が、ほかならぬ京都の「天皇」を自分たちの国王とみていたのは明白であり、そのことが疑いない以上、鎌倉幕府ないし「東国」をそれ自体独自の国家であったとみなすことは、所詮不可能である(268ページ)

としたうえで次のように結論する。

「東国」(関東)を独自の一個の中世国家とみる説は、〈くに〉(地域)と〈封建王国〉(国家)とを混同した見地に立つものと考えざるをえない。(271ページ)

その上で次のように主張する。

天皇」が中世を通じて国王であったことを正しく認めることは、中世の諸問題を考察するについて決定的な意味をもつ。「東国」が、独自の国家を成立させる可能性をはらんでいたほど〈くに〉 としての顕著な特色をもっていたことは、重視されなければ成らないし、その理由も深く掘り下げられるべきであろう。しかし、それを重視することと、客観性を失った過大な「東国」評価の上に中世史像を描いてみせることは、別である。それを曖昧にしたままで、中世の日本が近代的な“統一国家”でないことや諸々の制度が雑多で無統一であること、あるいは「中世国家の二元性」などを強調するのは、結果として中世国家史の全体的な解明の課題をそらしているだけのことになろう。だが、それでは日本の歴史の特質も「天皇」制の本質的特色も、われわれの眼前には現れてこないのである。(272ページ)

ここを通じて感じられるのは「封建王国」概念の曖昧さである。「封建王国」は国王を頂点とする政治的形成体であると黒田はいう。その実例として黒田は「頼朝自身が「天皇」を指して「帝王」の語を用い、『吾妻鏡』の地の文でも安徳天皇を「先帝」、承久の乱後の後堀河天皇を「新帝」あるいは「皇帝」と記している」とこと挙げている。そしてそれらについて「自国の国王以上(以外)のなにかの地位を指すと解するのは、どう見ても無理ではなかろうか」と言い、「幕府当局者が「天皇」を自分たちの国王とみていたことは、疑問の余地がない事実」としている。そして『愚管抄』で天皇を指して表記した「国王」という言葉には「“国王以外のもの”の意味を読み取りうる余地は皆無」(269ページ)という。
ここで問題になるのは分析概念であるはずの「封建王国という政治的形成体の頂点を構成する国王」論ずるべき場面で史料から「国王」の字面を引っ張ってきたことである。つまり分析概念としての「国王」と史料上の用語である「国王」が混じってしまっているのである。その混乱を避けるべく、本エントリでは「封建王国という政治的形成体の頂点を構成する国王」、つまり「分析概念としての国王」を【国王】と表記する。ここで黒田が分析概念として「封建王国」を措定するのであれば、その頂点に立つ【国王】についても概念規定をしっかり行ってから、史料の分析を行うべきであったのだ。しかし黒田は【国王】概念を詰めることなく安易に天皇を【国王】と措定した。なぜ天皇が【国王】なのかといえば、愚管抄天皇のことを「国王」と表記しているからだと説明する。そして「帝王」や「先帝」や「新帝」という史料上の人物を【国王】と認定する。これは黒田自身が院政で考察した内容と著しく矛盾するのだ。院政天皇という古代の体制の中心的存在を超える家長としての院に支配される形になったはずではなかったか。権門体制のもとでの【国王】は少なくとも天皇だけではない。治天こそ国王、という見方はその不備を修正したものと言えるだろう。そのような修正案が可能ならば、そもそも権門体制にあっては、もっとも強い権門の家長が【国王】でなければならない、ということになる。したがって「治天」が【国王】である、という議論が権門体制論として成り立つのであれば、鎌倉幕府が成立し、特に承久の乱以降の権門体制においては、鎌倉幕府が圧倒的に強いことは論を俟たないだろう。とすれば、権門体制論のテーゼに忠実であるならば、封建王国の【国王】は鎌倉幕府の将軍でなければならない。鎌倉幕府の将軍こそ封建王国最強の権門の家長なのだから。
ちなみに黒田は1977年に執筆された「中世天皇制の基本的性格」において天皇を「王家」「国王」「帝王」として分析し、その中で「国王」の概念を規定してはいる。

制度上、支配層内の序列の最高位者でありそれゆえにまた支配権力発動の際の代表者でもあることを意味する。(中略)ただ注意しなければ成らないのは、このことはそのまま国家権力と国政の実際上の掌握者ということを意味しないことである。(中略)王権とはこのような制度上・機構上の地位に伴う国家公権を本質とするものであり、いかに指摘・恣意的な行使と区別し難い状況があろうとも、この公的性格は不可欠の特質であるといわねばならない。
王権は一般に全人民の利益を代表する超越的なものとして承認され讃仰さえされるが、究極は全支配階級による全人民支配のための権力であり、そのために各級の私権を調整する権能と強力装置を発動する機能とをもち、国政の執行と種々のイデオロギーを不可欠の手段とする。そして王権がそのようなものでるためには、国王は、一つには、君臣関係・主従制・知行制など封建的位階秩序の頂点に位し、支配権力の代表者として尊厳性を具備しなければならない。(中略)国王はもう一つには、国家の公的機構を運営し統治行為を執行する国政の頂点に立ち、その最高権限の発動の主体たる地位を占める。国王は少なくとも名目上は、国家権力の中枢を掌握しそれを発動する立場にある。(320ページ)

この【国王】の定義に従う限り、日本中世には【国王】はいないことになりかねない。少なくとも「治天」はこの要件からは脱落するだろう。逆に近世の天皇も特に大政委任論出現以後の天皇は「制度上、支配層内の序列の最高位者でありそれゆえにまた支配権力発動の際の代表者でもある」ということにもなりかねない。それに対しては紫衣事件を持ち出して「幕藩体制のための「権威の源泉」の役割の一部を果たすものとしてむしろ新たに創出されたとさえいえる」(330ページ)としているが、それならば承久の乱後嵯峨天皇擁立の過程を考えれば、鎌倉時代天皇も同じことが言えるのではないか、という疑問が出てくるのである。
荘園制社会という土台の上に構築された上部構造である権門体制の本質を考えるならば、そもそも【国王】を一つにまとめる必要があるのか、という問いが浮上してくるであろう。
次に「封建王国」の「領域のなかの土地と人民を支配し封建法(広い意味での)によって統治し」という部分についてもいろいろ考えることができよう。詳しくは論じる力もないが「御成敗式目」を考えれば、十分に鎌倉幕府も国家たりうるのである。