源実朝の暗殺

1219(建保7、この年4月に承久に改元)年、右大臣拝賀の式に臨んだ鎌倉幕府三代目将軍源実朝は、参拝を終えて石段を降りたところで甥(二代目将軍源頼家の子)の公暁に暗殺された。その時に太刀持ちをしていた大学頭・文章博士源仲章も殺された。仲章の役目は本来執権の北条義時が務めるはずであった。実朝の首を持った公暁は乳母夫の三浦義村の下に向かうが、義村は義時に知らせ、公暁を討ち取る。
実朝がなぜ暗殺されなければならないのかについては、その暗殺の黒幕を含めて議論が存在する。
北条義時黒幕説、三浦義村黒幕説、公暁単独犯説、後鳥羽上皇黒幕説である。
従来有力視されてきたのは北条義時説である。義時は儀式の直前に体調を崩して式を抜け出している。陰謀を知っていたからこそ抜け出したのだろうと考えられていた。それに対し、義時が務めるはずであった太刀持ちを務めていた源仲章が殺されているところと、公暁三浦義村の下に向かっていることを以て三浦義村黒幕説を主張したのが永井路子氏で、その見解は石井進らの支持を得た。
結論から言えば北条義時主犯、三浦義村共犯というのが現在もっとも説得性のある説であろう。五味文彦氏が1979年に発表した「源実朝−将軍独裁の崩壊」(『歴史公論』後に『吾妻鏡の方法』に「源実朝−将軍親裁の崩壊」に改題され再録)で主張された説である。五味氏は従来考えられていたように実朝を北条氏の傀儡とは考えず、将軍の親裁が機能していた、と捉えた。さらに朝廷との連携を目指した実朝に対し、義時と義村は手を結んで実朝と実朝を支えた源仲章の排除に乗り出した。その後、実朝の従弟(源義経の同母兄阿野全成の子)の阿野時元が滅ぼされている。北条氏は源氏を滅ぼしにかかったのは確実である。
実朝の政治の特徴であるが、五味氏は政所の構成に注目する。実朝の時代は将軍家政所下文が出されているのだが、そこに署名する別当の数が最大9人になっている。この構成を検討することにより、実朝政権の構成員とその勢力分布が分かる。そこで五味氏が注目したのが源仲章である。仲章は単なる文章博士ではない。実朝の時代に政所別当の一員となり、実朝親裁をリードしたと考えられている。鎌倉幕府の政所別当9人の一人であり、同時に後鳥羽院政の近臣でもあった仲章は、後鳥羽と実朝を結びつける強い紐帯となったのである。仲章は偶然殺されたのではない。義時・義村を中心とする反将軍勢力は実朝と仲章をターゲットに据えたのである。
それではなぜ三浦義村黒幕説が出て来たのか。それは三浦氏と北条氏を敵対関係に捉える先入観が強く存在したからだと考えられる。三浦氏と北条氏の対立関係は、この両者が黒幕であった、という五味氏自身も、侍所の別当北条泰時、その指揮下に義村を据えたことについて「微妙な関係にある北条氏と三浦氏の対立を煽ろうとするねらいがうかがわれる」(「源実朝−将軍親裁の崩壊」『吾妻鏡の方法』162ページ)と、北条氏と三浦氏の対立関係を想定している。そして実朝の狙いが外れた、としている。
実際に三浦氏と北条氏の対立関係は存在したのであろうか。私はそこに疑問を感じる。結果として三浦氏と北条氏は宝治合戦で激しく戦い、三浦氏が滅ぼされるのだが、そこから演繹して三浦氏と北条氏を対抗関係で捉えているのではないだろうか。北条義時の娘は三浦義村の嫡子泰村に嫁ぎ、一方三浦義村の娘は北条泰時に嫁いでいる。そして三浦泰村北条時頼の初期においては時頼の宿老として重きをなしているのである。三浦氏と北条氏は対立関係ではなく、基本的には協調関係にあったとみていいだろう。公暁とその関係者の抹殺に反対したのは義村の弟の三浦胤義であり、義村の子で泰村の弟の光村である。胤義は承久の乱で後鳥羽側について処刑される。光村は九条道家と組んで反北条時頼クーデターを起こそうとしていた可能性があり、宝治合戦は、安達氏の強硬派安達景盛と、三浦氏の強硬派三浦光村によって引き起こされた、という見解もある(永井晋氏『鎌倉幕府の転換点』)。
こう考えてくると、実朝暗殺事件の背景ははっきりしてくるであろう。将軍親裁を強め、後鳥羽との連携強化を目指し、朝廷という〈共同体−間−第三権力〉内部の強力機構となること、つまり権門体制の中の武を担当する武家権門を目指す実朝政権に対し、鎌倉幕府をあくまでも東国の〈共同体−間−第三権力〉として朝廷からの一定の自立性を持とうとする北条氏・三浦氏を中心とする幕府内部の反実朝派が起こしたクーデターだったのである。
実朝の後継者は後鳥羽の皇子の六条宮雅成親王または冷泉宮頼仁親王が考えられていたが、実朝の暗殺を受けて鎌倉幕府との協調を諦めた後鳥羽はそれを拒絶、結局頼朝の遠縁に当たる藤原頼経九条道家の子)を実朝の後継者として擁立することとなった。北条氏を中心とする反実朝派は、もはや源氏から将軍を擁立しようとはしなかったのである。もっとも実朝自身も源氏から将軍を出そうという気はなかったようで、実朝の存命中から皇族を将軍に据えようとしていたようである。実朝の場合は明らかに朝廷との一体化を目指す動きに位置付けられるであろうし、だからこそ後鳥羽も乗り気だったのだが、実朝暗殺によって、幕府の方針は一変するだろうと考え、後鳥羽は拒否したのであろう。ちなみに頼経の父の道家を反後鳥羽と考えるのは正しくない。道家仲恭天皇の伯父に当たり、摂政を務めていた。後鳥羽の倒幕計画にこそ関わらなかったようだが、承久の乱後、仲恭天皇は廃位され、道家も摂政を罷免されている。道家が復活するのは、北条義時北条政子が相次いで死去し、治天の君であった後高倉法皇(後鳥羽の兄で皇位についていたことはなかったが、幕府によって皇子の後堀河天皇が即位したことを受けて法皇の尊号を受け、治天として政務をみた)も死去し、近衛家実が関白として後堀河親政が行われていたが、1228(安貞2)年関白を辞し、替わって九条道家が関白となる。道家関白就任の背景であるが、西園寺公経関東申次道家の義父)と鎌倉幕府のパイプという見方と、藤原頼経鎌倉幕府将軍、道家の三男)の影響とみる見方があるが、これはもはや実朝とは関係がなくなるので、また別のエントリで検討したい。ここではとりあえず道家を必ずしも「反後鳥羽」とみなす必要はない、ということを指摘しておきたい。後に道家は順徳の皇子を皇位に就けることを主張し、鎌倉幕府の反発を買っている。さらに後鳥羽の死去に際しては「顕徳院」という、とびっきりの尊号を奉っている。後に北条氏の反発を買って「後鳥羽院」に格下げされているのだが。
実朝暗殺の背景を踏まえた上で、実朝暗殺の動きを再構成すると次のようになる。
義時と義村を中心とする反実朝派は、ターゲットを実朝と仲章に据え、クーデターを計画した。舞台は鶴岡八幡宮。実朝暗殺と同時に源氏の将軍継承者も消しておかなければならない。実朝が消えても、新しい将軍は必ず実朝化する。将軍は京都から迎え、必要がなくなれば京都に送還する形が望ましい。公暁も抹殺対象リストに加えられた。義村は公暁を煽る。「あなたの父を殺したのは実朝と義時ですぞ」と。公暁は実朝と義時に殺意を抱く。義村は八幡宮別当であった公暁にその舞台での決行を勧める。実朝の太刀持ちは義時である。実朝と義時を一気に殺すには最高の舞台だ。もちろんその計画は義時も熟知している。というよりもその計画は義村と義時が練り上げたものであった。儀式の日、公暁にも知られない直前に義時は仮病を使って太刀持ちを実朝の信頼が深い仲章に任せる。何も知らない仲章は喜んで義時の替わりを務めた。同じく何も知らない公暁は実朝を殺し、仲章を殺した。もちろん彼は実朝と義時を殺した、と信じ込んでいた。義村の下に使者を遣わし、暗殺計画の成功を知らせ、義村に迎えを要求する。公暁の中には公暁と義村による鎌倉幕府樹立が見えていたであろう。しかし義村は公暁に刺客を差し向け、公暁を有無を言わせず殺害する。さらに公暁の同母弟の禅暁を謀反人公暁連座させて誅殺する。ここに頼家の男児は全て消えた。北条・三浦の刃は北条氏ゆかりの源氏にも向かう。頼朝の弟の全成の妻は政子の妹で、実朝の乳母でもあった阿波局である。全成と阿波局の間に生まれた阿野時元は有力な将軍継承者となるであろう。しかし時元も謀反の名のもと討滅される。こうして源氏将軍に近い親族は高野山で修行の日々を送る頼朝の子の貞暁一人になった。貞暁は将軍になる意思のないことを証明するために己の片目をくりぬいた、とされる。この真偽は分からないが、それだけ苛烈な監視下にあった、と考えることもできるだろう。貞暁は1231(寛喜3)年、自害した、と伝えられる。その前年、頼家の遺児の竹御所が藤原頼経に嫁いでいる。頼朝の血を引く後継者が頼経に出来る可能性が出たことで貞暁が邪魔になった、とも考えられよう。しかし竹御所も男子を死産の末、自身も死去し、頼朝の血筋は完全に絶えた。