源実朝政権における源仲章の役割について
源実朝が必ずしも北条氏の傀儡でないことは、現在ではほぼ学界では定説となっているとみていいだろう。『現代語訳 吾妻鏡 8 承久の乱』では杉山巖氏が解説を書いていて、そこの「実朝の治世」では「実朝の治世にあたる建保年間は幕府の基盤がよく整えられた一時期と評価することができる」とされている。
ただ一つ疑問がある。「実朝の治世」の冒頭では
以上のような鎌倉と京との関係を受けて、実朝の政治姿勢は「親朝廷」であったと評価する向きもあるが、それは誤りである。和田合戦以後、大規模な幕府内部の権力闘争はひとまず収まっていたこともあって、実朝の治世にあたる建保年間は幕府の基盤がよく整えられた一時期と評価することができる。
となっている。つまり「親朝廷」であったと評価する見解に対する反証として「幕府の基盤がよく整えられた一時期」であるという評価を行っているのであるが、「親朝廷」であることと、「幕府の基盤がよく整えられた」ことは矛盾するのだろうか。私にはそうは思えない。この両者は並立しうる。幕府の基盤を整えること自体は、権門体制の一環を構成する幕府の整備でもあって、朝廷の利害と必ずしも対立するものではない。しかし幕府が朝廷からの自立傾向、さらに進んで朝廷に介入してくる形で幕府の基盤が整えば、それは矛盾対立するものであろう。では実朝の治世下にある鎌倉幕府の基盤整備はどのような側面を持っていたのだろうか。
以下杉山氏の解説にしたがって実朝政権の具体的な政策についてみていく。
実朝が行った訴訟制度の改革であるが、『吾妻鏡』建暦2(1212)年10月22日条には奉行人を関東御分国に下し遣わして、その国の民庶の愁訴を成敗させよ、との命令を出している。「為被止参訴之煩」であるという。これなどは〈共同体−間−第三権力〉としての機能を果たそうというように評価できようが、これが朝廷と対立するものではないことはいうまでもない。関東御分国内部の訴訟制度充実であり、幕府の「撫民」政策の一つとは評価できよう。
『吾妻鏡』建保4(1216)年4月9日条には常御所南面において終日諸人の愁訴を聴断した、という記事があり、同年10月5日条にも将軍家が諸人の庭中言上の事を聞いた、という記事がある。そして同年12月1日には諸人の愁訴が相積む状態になっているので、年内に判決を出すように奉行人に支持した、という記事がある。
このような実朝の親裁に応じて政所が再編強化されている。具体的にはそれまで4〜5人であった別当が建保4年に9人に増やされている。増えた4人とは、大江広元、源頼茂、大内惟信、源仲章である。大江広元は文士として、自らの政治的立場を明らかにせずに動いてきた官僚で、ここでは頼朝以来の功臣で、北条氏とも関係が深いため、将軍権力の暴走を阻止しようという北条義時の意向があった、と五味文彦氏は想定する(『吾妻鏡の方法』156ページ)。源頼茂は摂津源氏の嫡流で、後に承久の乱の直前に後鳥羽によって討滅されている。大内惟信は平賀義信の子で、かつて義時によって誅殺された平賀朝雅の兄弟に当たる。彼は畿内六カ国の守護職を兼ねていた。彼の子の惟義は承久の乱で後鳥羽側について没落した。この二人は武家の棟梁クラスの人物である。彼等のような源氏の一門を政所別当すなわち家司にしていることは、実朝と惟信・頼茂の間に主従制が成立していることを意味している。そして彼等はいずれも在京御家人として、幕府と朝廷の両属的な位置付けにあった。
そして源仲章である。彼も在京の御家人で、かつて阿野全成の子の播磨公頼全を討った人物でもある。「文章博士」の肩書きにとらわれて単なる下級貴族として扱ってはならない。そして彼の地位は広元の次席、すなわち北条義時の一つ上に署判を据えている、という地位である。政所では源仲章の発言力が増していた蓋然性が高い。
『愚管抄』には仲章のことについて次のように記されている。
実朝卿ヤウヤウヲトナシク成テ、ワレト世ノ事ドモ沙汰セントテ有ケルニ、仲章トテ光遠ト云シ者ノ子、家ヲ興シテ儒家ニ入リテ、菅家ノ長守朝臣ガ弟子ニテ学問シタリトイハルゝ者有シガ、事ノエンドモ有ケレバニヤ、関東ノ将軍ノ師ニナリテ、常ニ下リテ、事ノ外ニ武ノ方ヨリモ文ニ心ヲ入レタリケリ。仲章ハ京ニテハ飛脚ノ沙汰ナドシテ有ケリ。コレガ将軍ヲヤウヤウニ漢家ノ例ヲ引テ教ルナド、世ノ人沙汰シケル程ニ、又イカナルコトカト人思ヒタリケリ。
注目点は次の二つ。一つは実朝が「ワレト世ノ事ドモ沙汰セントテ有ケルニ」つまり将軍親裁制度を復活させようとする考えを持っており、それに対して仲章を持ってきた、と考えられること。もう一つは「京ニテハ飛脚ノ沙汰」をしていた、という事実である。ここで「飛脚」というのは、もちろん京の朝廷と鎌倉の連絡を担当していたことを示す。正治2年11月1日には「相模権守」つまり仲章の「飛脚」が「自京都参着」したとある。
外には交通や商業に関する施策、御家人の叙位任官に関する原則、侍所の再編など、意欲的な政策を打ち出している。そこでの中心にあったのが仲章であった可能性は高い。
官位の急激な上昇について、杉山氏は実朝の後継に後鳥羽の皇子を据える構想の準備という見方を否定し、鎌倉殿の自覚にその原因を認める。その典拠としてあげているのが実朝が広元に語った「源氏の正統は自分の代で絶えるのだから、昇進して源氏の家名を上げたい」という発言であるのが、いささか分かりにくい。たとえば「昇進して源氏の家名を上げたい」というのであれば非常によく分かる。しかし実際には「源氏の正統は自分の代で絶える」とある。これは実朝が己の運命を予告していた、のではもちろんなく、実朝の子が出来ないことに応じて実朝の後継に後鳥羽の皇子を据えようとする動きに対応した発言であろう。後鳥羽の皇子が鎌倉にやってきて実朝の後継になれば、実朝の代で源氏将軍は消える。そして実朝は皇族を後継者として据える以上はそれ相応の体面を保たなければならない。そのために官位を上昇させることを望んだ、ということと、鎌倉殿の自覚とはもちろん矛盾しない。官位を上昇させ、後鳥羽の皇子を迎える体面を整えること、それはまさしく「幕府の基盤の整備」にも結びつくし、「鎌倉殿の自覚」に基づいている。そして皇族が将軍になることによって幕府と朝廷が一体化していく限り、幕府の強化は後鳥羽にとっても歓迎すべき問題であるのだ。
侍所の改革については、従来侍所別当の役割は御家人のことの奉行と、御所の雑事と、御家人供奉役の諸役の催促であった。ところが建保6年7月22日に泰時を別当とし、三浦義村と二階堂行村とともに御家人奉行に当たり、御所の雑事については泰時の管轄から大江能範に、供奉役催促については伊賀光宗に、それぞれ管轄が変更されている。将軍権力の強化と執権権力の削減、そこに親王将軍がやって来れば、幕府は完全に後鳥羽の支配下に入ることになる。後鳥羽が実朝を官打ちにしようとしたという説は、そもそも顧慮するに値しない俗説の域を出ないし、後鳥羽が実朝を暗殺する訳がないのである。実朝が京都に上りたがる大江親広を叱責したとか、地頭解任要求を拒否したとか、西園寺公経の解任を非難する、というのは、いわば些細なことであり、これが後鳥羽と実朝の間で大きな政治問題となった形跡はない。実朝死後に後鳥羽が出した地頭解任要求は政治問題となっており、承久の乱の引き金になっていることと比べるとその差は歴然としている。
北条義時には実朝と仲章を暗殺しなければならない理由があったのである。それは後鳥羽院政と一体化を計ろうとする実朝−仲章を消し、幕府が院政に九周されてしまいかねない危機を乗り切るために必要なことであった。