『吾妻鏡』に見る源実朝暗殺

北条義時黒幕説に対する反対意見として、義時が黒幕ならば、自身の関与を疑わせるような記録を残すわけがない、というのがある。その通りである。この件に関する公的な記録とは『吾妻鏡』のことであるが、『吾妻鏡』には義時を黒幕とうかがわせる記述はどこにもない。それどころか全力を挙げて義時が黒幕ではないことを喧伝しており、実朝が事件に遭遇したのは実朝の責任であることをほのめかしているのである。
実朝が暗殺された建保7年正月27日条には「抑今日勝事、兼示変異事非一」としてさまざまな予兆が示されている。
1 大江広元が「私は成人した後、涙を浮かべたことがなかったのに、今おそばに参りますと落涙がとまりません。頼朝公の先例に従い装束の下に鎧を付けて下さい」と言った。しかし源仲章が反対したため実行されずに実朝と仲章が災厄に巻き込まれた。つまりここで言いたいのは仲章に大きな責任がある、ということである。
2 秦公氏が実朝の髪を梳いていたところ、鬢の髪を一本抜いて形見だと言って宮内公氏に賜った。
3 いでていなば 主なき宿と 成ぬとも 軒端の梅よ 春をわするな という禁忌の歌、つまり帰らないという歌を詠んだ。
4 不思議な鳩が鳴きさえずっていた。
5 牛車を降りる時に剣が折れた。
北条義時にも変異が現われた。式の直前、心神が乱れ、太刀持ちを仲章に譲った。2月8日に大倉薬師堂に参詣した記事で、義時が心神を乱したことの謎解きが行われる。義時は白い犬をみて心神が乱れ、仲章に譲ったのだが、義時が太刀持ちを務めることを知っていた公暁は仲章を殺害したのであるが、その時大倉薬師堂の犬神は堂にいなかったという。この大倉薬師堂は建保6年7月9日に義時が夢のお告げを受けて再建したものである。そのお告げとは「来年の拝賀の日は供奉しないように」というものであった。
つまり神のお告げは実朝と義時の両者に対してあったわけだが、義時は神のお告げに従って難を逃れ、実朝は神のお告げに従わずに難に遭った、という論法になる。つまり『吾妻鏡』は全力を挙げて義時だけが助かった理由を述べ立てているわけで、義時の関与をうかがわせるような記述は存在しない。ただこのような『吾妻鏡』の記述をみて今日の我々は「あやしい」と思うのであるが、それは『吾妻鏡』編纂者の知ったことではないのである。