「定米」と「定八木」

上の「はゝ村」分でも「はし殿方」とあるものは「定八木」となっている。以前にも触れたが、「八木」は「米」のことだろうが、底本とした『長岡京市史 史料編』所収の「九条家文書」の翻刻が間違えている可能性がある。こういう時には原本を見るのが一番望ましいのだが、宮内庁所蔵の『九条家文書』はおいそれと見られるものではない。仮につてがあって見ることが出来たとしても、「戦国IXA」がらみでわざわざ東京まで行って見るのは何だかなぁ、という気がする。そこでもう一つ別の刊本を見るという方法がある。バイト先に架蔵されているのは宮内庁が出版している『図書寮叢刊 九条家文書』第五巻に「小塩荘帳写」が翻刻されている。それで校合すると、やはり「八木」と書いてある。多分「定米」のことだろうが、宮内庁長岡京市史編纂者がいずれも「定八木」と書いている、ということは、それは「定米」とは分けて「定八木」と書くべきものである、と判断できる。古いのは『図書寮叢刊』の方なので、『長岡京市史』が『図書寮叢刊』の誤りに引きずられた可能性もなきにしもあらずだが。