北朝の天皇が抹殺されるまで

明治政府はそのイデオロギー主柱が水戸学であったことが、北朝ではなく、南朝が正統であると考えられた根本にあると思われる。江戸幕府の歴史意識では、後醍醐で王朝は終了して武家の世になっているのである。王朝交代の思想に基づけば、南朝正統の方が何かと好都合であった。松平定信の大政委任論から始まって、幕末の政治情勢の中で攘夷を決行できない「征夷大将軍」に対する不満が高まり、「尊王攘夷」から「尊王討幕」へと政治動向が変わり、明治維新に至る。明治維新では水戸学の影響やら、国学、特に大国学(おおくにがく=大国隆正の学派であって、「だいこくがく」ではない。念のため)を中心とする国学ヘゲモニーを一時的に握る。いわゆる祭政一致の段階で、神祇官太政官の上に置かれた時代である。神武の昔にもどろうとしたらしい。やがて文明開化の中で彼等は非主流派に転落して行くのだが、彼等の思想は民間右翼団体やその影響を受けた地方の保守思想を支えることになった。
時代はめぐって元老山県有朋による第一次西園寺公望内閣が退陣に追い込まれ、山県の直系の桂太郎によって第二次桂太郎内閣が成立していた。第二次桂太郎内閣は戊申詔書大逆事件による国内の弾圧、外交面では韓国併合や条約改正による帝国主義の進展がその主要なる実績である。
当時の尋常小学校用の国定教科書「日本歴史」において文部省教科書編纂官の喜田貞吉師範学校相手に講演を行なっていたが、その内容が波紋を広げていた。喜田は南北朝を両立させていたのである。北朝も正統である、という言い方が、南朝の正統を疑わず、それが現天皇の血筋と矛盾することも考えようとしない頑迷固陋な保守思想に受け入れられず、文部省に対する現場の少壮の教師の反発が高まり始めていた。喜田をはじめとする文部省の立場は、南北朝いずれが正統か、という問題は現状宮内省でまだ結論を出していないところであったので、宮内省の意向を受けて南北両朝並立としていたわけである。しかし文部省、特に文部省の立場を現場の教師に伝えた喜田の論は、保守的な人々の間で反発を呼び始めていた。頑迷固陋にして無知な人々にとっては宮内省や当の天皇がどう考えるか、ではなく、自分が考えるあらまほしき天皇が大事なのである。そういう人間に限って「なぜ日本人なのに皇室を蔑ろにするのか」という物言いをする。しかし実際に一番蔑ろにしているのは、そういう当人なのである。天皇機関説を不敬だと美濃部達吉を非難したのは菊池武夫であったが、当の天皇自身は天皇機関説論者であった。貴族院議員であった菊池にとっては、当面の政局のために天皇を利用し、しかも勤王の衣をまとって政敵を攻撃するために天皇を利用したのである。「勤王」を自称する人々にはしばしばそういう手合が存在する。山谷えり子氏とそれに便乗した産経新聞はまさに自分の政局のために天皇を利用した「皇室を蔑ろにする」人々である。
喜田の話にもどると、喜田の教科書に反発する人々の声がついにマスコミを動かし、読売新聞の社説で教科書批判に火がついた。さらに藤沢元造衆議院議員によって国会の場に上ることになった。桂内閣は藤沢議員に圧力をかけて議員辞職に追い込む。しかしそこに犬養毅らが政府攻撃に利用し、政局になるのを恐れた桂内閣は喜田を休職処分とし、南朝を正統としたのである。北朝光厳・光明・崇光・後光厳・後円融の五代を皇統から抹殺し、南北朝時代という名称を吉野朝時代とする。そして北朝を担いだ足利尊氏は逆賊とされたのである。
この事件の最大の影響は、学校の歴史教育と学問研究が切り離され、学問は象牙の塔に押し込められ、教育は国家の定めたイデオロギーを注入するものと定められたのである。
「敵を尊敬する発想」に基づいて南朝を正統としている、という、小学校レベルの知識すら欠いているであろう見解が如何にお笑い草かが分かるだろう。知らなければ小学校の教科書でも見直せばいいのに。それくらいの労を厭ってはいけない。