下国由季・下国慶季について

下国重季の跡を継ぐはずだったが早世した、と伝えられる下国由季。下国直季と蠣崎季広の十女との間に生まれた、と伝えられる。由季はいつ死んだか不明だが、1594年に死去した、という説もあるらしい。しかし下国由季の室が蠣崎守広の娘という時点で、その説は消える。なぜなら蠣崎守広の嫡男の蠣崎友広の生年が1598年だからである。蠣崎守広の娘ならば守広の嫡男とそれほどかけ離れていない年齢を想定するのが自然で、由季死後4年にして生まれた友広の姉妹が由季と結婚して慶季を産んでいる、というのは不自然である。友広は1598年生まれで1658年死没。もう一つ由季の生没年比定に参考になるのが、由季の娘が松前景広に嫁いでいる、という事実である。景広は1600年生まれで1658年死没。となるとここでもややこしい事実が出てくる。由季の義兄弟の友広と、由季の婿の景広がほぼ同世代なのだ。一つはっきりしていることがある。慶季が1660年に死去している。ここから押さえて行くのがよさそうで、慶季がおそらく景広とほぼ同世代なのだろう。景広の父の慶広から一字を拝領しているところからみても、慶季の子の景広と慶季は同世代とみてさほど問題ないだろう。とすると慶季はほぼ1600年頃の前後20年の間に生まれていることになろう。慶季の母もそこから考えれば1560〜1580年頃の生まれと推定できる。とすれば兄弟の蠣崎友広よりはかなり年上ということになる。で、由季もそこからかけ離れた年齢ではあり得ない。
あと慶季に関して興味深いのは、『新羅之記録』には下国氏の系図の影響が強い、とされている。特に松前氏独自の史料がそろわない遡った時代の記述において下国氏の系図の影響が濃厚だとされる。下国慶季と松前景広の関係を考慮すれば、景広にとっては一番参考にしやすかっただろう。