下国慶季 下国氏系譜を松前藩に売り渡した男

もちろんベン・マッキンタイアー『エリーザベト・ニーチェ──ニーチェをナチに売り渡した女』のパクリ。
新羅之記録』は下国氏の系図類と非常に相関関係が強い。平川新氏によれば安日から政季までの記述は下国氏の史料が使われた可能性が高い、という。また工藤大輔氏によれば、下国氏の系図が『新羅之記録』を参考にしている可能性が高いという。進藤透氏によれば、神話的人物似ついては下国氏の影響が強く、時代が下ると下国氏の系図の影響は弱くなり、政季以降は松前氏独自の史料によっている可能性が高い、という。
下国氏の系図の中にはよく知られているように安日を祖先としているものがある。安日とは神武天皇に抵抗した長髓彦の兄と伝えられ、神武の東征後に津軽に追放された人物であるが、下国氏はその末裔である、という。その系譜は後に「安東水軍」なる伝説とともに有名になり、『東日流外三郡誌』をも産み出したのである。
新羅之記録』においてはその安東氏観がフルに活かされている、とも言える。『新羅之記録』を著述した松前景広の妻の兄弟が下国慶季である、という事実は、松前景広に下国氏の系譜を提供した人物の有力候補が慶季である、とも言えるだろう。
慶季はどのような人物であったのか。
慶季は茂別館主であった下国家政の孫とされる師季の次男直季の孫である。家政の家は初代家政、二代目師季、三代目重季と来て断絶、重季の弟とされている直季の孫の慶季が継承している。ちなみに慶季の父の由季も早世している。したがって下国嫡流家の継承がスムーズに行っているとは思えない。慶季の父由季の母、つまり慶季の祖母が蠣崎季広の娘であり、また母、つまり由季の妻が蠣崎守広の娘で、守広が季広の息子である、つまり由季の母方の祖父と父方の曽祖父が蠣崎季広になるわけで、慶季が下国嫡流家を継承したのは蠣崎氏=松前氏の血が色濃く流れていることと無関係ではないだろう。
松前藩主との強い血縁関係で抜擢された慶季は、松前藩の中では松前氏・蠣崎氏と並んで家老職に付く。キリシタン弾圧の時に検死役として派遣された松前藩家老下国宮内とは慶季のことである。松前藩はそのころ藩主の早世が続き、家老職の負担が大きくなっていた。慶季の代に問題になったのは、ヘナウケの乱とカストリクム号の来航である。ちなみにもう一人の家老職である蠣崎主殿は慶季の叔父にあたる蠣崎友広である。この系統は主殿系蠣崎氏という。もう一人の家老職が蠣崎蔵人こと蠣崎利広である。利広は季広の孫にあたる。この家系は蠣崎本家であり、正広系蠣崎氏ともいう。利広は友広の姉を母に持っており、慶季・友広・利広は相互に血縁関係で固く結ばれていたのである。
慶季には娘が多くいたが、男子に恵まれなかったのか、季広の子の長広を祖に持つ長広系蠣崎氏から要季という養子を迎えている。一応要季の母は慶季の娘であるから、慶季にとっては外孫になる。要季の妻は主馬流蠣崎氏の出身で、それ以降下国氏は主馬流蠣崎氏との関係を深めて行くようだ。ちなみに『夷酋列像』で有名な波響蠣崎広年は藩主松前資広の子に生まれたが、主馬流蠣崎氏を嗣いでいる。
もう一人下国氏系譜において大きな役割を果たしたのが慶季の曾孫にあたる寿季である。彼は後に季寿と名乗るが、この名乗りの変更に寿季の下国氏系譜における役割をうかがうことができるのである。