家永遵嗣氏の安藤氏論

家永遵嗣「一五世紀の室町幕府と日本列島の辺境」(二〇〇七年)を入手した。さるシンポジウムの時にご教示いただいたものだ。
そこでは安藤氏に関して、その取次を細川持之とする見解が出されていて、畠山満家を取次とする私見とは異なる。ただ氏の論拠には疑問があり、氏の説にはにわかには従い難い。
氏の論拠は安藤氏が十三湊に一時還住していた永享四年から嘉吉二年の間に管領であったのが持之である、ということに求められる。しかしそもそも安藤氏が十三湊に一時還住していた、ということ自体が史料の無批判な読解と、発掘調査の恣意的な解釈から導き出された議論であるように思えるからだ。さらに言えば十三湊にかかわるのは安藤氏だけであるべきだ、という先入観もしくは願望がそこに込められているように思えるのは言い過ぎだろうか。
発掘調査に関して言えば、おおざっぱに言えば、十三湊遺跡の真ん中に存在する大土塁の南北で栄えた時期が異なる、といわれている。一五世紀の半ばに土塁北地区から土塁南地区への転換がある、というのだ。土塁北地区には二次被熱を受けた土器が大量に出る、という。その後に土塁南側地区が繁栄する。これが十三湊遺跡発掘調査からみた安藤氏還住の裏付けである。要するにいったん戦災で焼けた後に、室町幕府の強力な介入で復帰してきた安藤氏が十三湊の土塁南地区を復活させた、というのだ。
この解釈には問題が二つある。
一つは土塁南側を開発したのが安藤氏である、という証拠はない。もちろん安藤氏ではない、という証拠もない。ならば安藤氏の還住を発掘調査から裏付けるというのは無理であろう。
二つ目は、土塁南側と北側の被熱土器の出土状況の違いである。被熱土器、すなわち火災痕を示す出土物は土塁北側に多く、南側に少ない。さらに土塁南側は一四六〇年代まで存続するという。文献史学によれば一四四二年に戦災で焼けていなければならない。しかし現実には一四六〇年ごろに、戦災以外の理由で十三湊遺跡は衰退していると考えられるのである。
この点の疑問を考古学研究者にぶつけてみた。返ってきた答えは「文献史学がそういうからそういうことになっているだけ」とのことであった。やはり文献史学のいい加減な読みに引きずられる形で発掘調査の結果なるものが作り出されているのだ。
史料に関して言えば、嘉吉二年に安藤氏が十三湊を没落した、という記事の根拠は『新羅之記録』である。しかしそれを通読すれば、少なくとも年代関係に関しては信用するに足りない、ということくらいは容易にわかる。何せ安藤盛季と南部義政という物故者同士の霊界大合戦が演じられているのであるから。『福山秘府』にも「妄説」と突っ込まれている。松前広長にできる突っ込みがなぜ現代の名だたる研究者にできないのか、不思議で仕方がない。『新羅之記録』によれば南部義政は永享十二年に初めて津軽に行った、と書かれている。舅の盛季に会いに行ったのである。そこで「津軽はよいところだ」と津軽征服の野望を抱いたそうである。永享四年の十三湊攻撃は何だったのだろう。
つまるところ『新羅之記録』と『満済准后日記』という、性格の全く異なる史料を何の史料操作も行うことなく素朴に結合したところに安藤氏十三湊還住説が生じるのである。北方史においてはかなり適当な史料解釈がまかり通っていることの好例である。問題は家永氏のような、おそらく現在において超一流の文献史学の研究者にも、『新羅之記録』と『満済准后日記』を安直に接合し、さらに発掘調査を恣意的に解釈することによって生じる結論をうのみにしてしまうだけの広がりを、安藤氏十三湊還住説が持っているところにある。
ちなみに発掘調査と『新羅之記録』の史料批判の結果、上記の私の疑問が解消されれば、十三湊還住説は成り立ちうる。というのは足利義教畠山満家が「たぶん南部は聞かないだろうな」と思いながら出した御内書が、はからずも南部に受け入れられた可能性はあるからである。もし南部氏が義教の御内書を受け入れれば、一番びっくりしたのは義教自身であろうことは間違いがないであろうが。あとは管領の役割だが、管領自身のあり方が安藤氏と南部氏に対するあり方を規定するほど強いとは私には思えない、とか、むしろ満家とか山名時煕の方が力はあっただろうと思う。特に満家の存在は大きかったと思うのだが、いかがだろうか。