細川持之=下国氏の「手筋」論の不可の理由

津軽安藤氏嫡流とされる下国氏と室町幕府の関係に関して、室町幕府側の「取次」というか「手筋」を務めていた人物について、家永遵嗣氏は細川持之ではないか、と推測する。その根拠としては下国氏が十三湊に還住し、再び蝦夷地に落ち延びるまでの永享四年から嘉吉二年までの間に管領であったのが細川持之である、ということが挙げられる。私としてはそもそも下国氏が一旦蝦夷地に没落して、室町幕府の斡旋によって十三湊に還住し、再度没落する、という経過自体受け入れられないが、十三湊遺跡の発掘調査がさらに進んで、
1土塁北側地区の整理と土塁南地区の整備を行なったのが南部氏ではなく下国氏でしかあり得ないという明確な証拠が出され、
2土塁南部地区からも被熱土器が大量に出土し、
3従来一四六〇年頃まで存続したとされてきた十三湊遺跡の存続年代が一四四〇年代に修正され、
4『新羅之記録』の当該部分の記述が信用できる、
という四つの条件がそろえば、還住説を受け入れるにはやぶさかではない。還住説の方が私にとっても茂別下国師季を論じる歳に都合がいいのだ。しかし自説に都合がいいから、という理由で現状は間違えているとしか思えない還住説を受け入れるわけにはいかない。
もし上記の四条件がクリアされても、私は下国氏の「手筋」を細川持之であるという所説に現状では同意できない。その理由は家永論文では『満済准后日記』永享四年十一月十五日条が検討されていないことにある。家永氏は永享四年十月二十一日条のみを検討しているのだ。その結果「陸奥への対策は、将軍と管領の周辺で処理されていたと思しい」としている。しかし十一月十五日条を見れば、将軍周辺は南部氏に対して下国氏と和睦せよ、という御内書を出すことに消極的であることは明らかである。細川持之が「手筋」であるならば、将軍周辺が御内書発給に消極的であるわけがない。「陸奥への対策は、将軍と管領の周辺で処理されていたと思しい」という評価は過ちではないだろうが、そうであれば余計に細川持之が下国氏の「手筋」であった可能性は減少する。「将軍と管領の周辺」で処理できなくなり、畠山満家満済が介入する余地ができたのだろう。そしてその場において満家は最大限「手筋」としての立場で御内書発給に消極的な「将軍と管領の周辺」の意向をひっくり返して下国氏のための御内書発給にこぎ着けたのである。家永氏の言うように持之が手筋で、なおかつ「将軍と管領の周辺で処理されていた」のであれば、「南部方ヘ下国和睦事、以御内書可被仰出事、若不承引者、御内書等不可有其曲歟」という文言の解釈が極めて難しくなるだろう。細川持之「手筋」論はこの文言から鑑みても成り立たない、と考える。この文言は「陸奥への対策」が「将軍と管領の周辺」では処理しきれず、御内書発給に消極的になった「将軍と管領の周辺」の意向を示す文言であると考えられる。それに対して満家が「遠国事自昔何様御成敗毎度事間、不限当御代事歟。仍御内書可被成遣条、更不可有苦」と、御内書が拒否されるリスクを負ってでも下国氏のために御内書を発給せよと迫っているのである。そこから考えれば、下国氏の「手筋」を務めていたのは、畠山満家と私は考える。