永玉書状について

青森県史』所収の「遠野南部家文書」に「永玉書状」がある。頭痛のタネだ。
「永玉書状」は「遠野南部家文書」一四一であるが、『青森県史』によれば「応永二十一年頃カ」となっている。しかし家永遵嗣氏の「一五世紀の室町幕府と日本列島の『辺境』」においては長禄合戦を示すものとされている。一四一四年から一四五九年まで約四五年のタイムラグがあるわけで、どちらが正しいのか、これまた判然としない。
どちらが正しいのかを私ごときが判定できるわけもないのだが、自分なりの読解を示しておかなければ、いろいろと困る。
史料全てを打ち込むのは面倒くさいので、また暇があるときにでもすることにして、ここではポイントとなる部分だけを引用する。
まず一番の手掛かりは宛名である。「薩摩入道」とある。つまり官途が「薩摩守」であること、すでに「入道」しており、そこそこの年齢であることが手掛かりになる。八戸南部氏で「薩摩守」の官途を持つものは二名。政光と光経である。『青森県史』が政光説、家永氏が光経説。彼等の系譜関係を示すと以下の通りになる。

政光−長経−光経−長安−守清−政経(守清弟新田清政子)

長経と光経の活躍期間が応永十七年から二十六年ごろが中心となる。ということは、政光が応永二十一年の文書に出てくるのはかなり難しい。つまり応永二一年頃に政光の事跡は全く見られない。(今日、遠野南部家文書一四二を参照したら、応永二十六年付けの文書に「聖守」の置文が出てきた。「聖守」とは政光の法名ということで、この問題は少し考える必要がある)政光は南北朝内乱のまっただ中に活躍した人物である、といえそうだ。
もう一つ手掛かりがある。「六郎殿 小具足」という記述である。「六郎」の仮名を持つ人物は南部長安。光経の子である。左近将監を経て永享4年には遠江守に任官している。長安の曽祖父の政光と『青森県史』は考えたようだが、家永氏の光経説の方が筋が通っていそうだ。
しかし家永氏説にも問題はある。「六郎殿」が長安とすると、長禄合戦の頃に家督を継承していた南部政経の祖父が「小具足」を付け、「六郎殿」と仮名で呼ばれていることになる。実際には左近将監に任官した段階で官途名で呼ばれるはずであるから、この書状の内容は永享年間初頭を下らないと考えられる。
次に内容に入る。

抑武衛方、世上之事、越前国、自 公方様、諸大名被仰付、以御勢御沙汰候間、属無為候、甲斐方始皆々満足候、殊ニ二宮信州御事者、公方様より内々被仰候間、西国辺より御上洛候て、所持御満足目出度候

これをこの文だけを素直に解釈すれば長禄合戦にぴったりである。長禄合戦は、古河公方足利成氏討伐の命令を受けていた斯波義敏(武衛)が越前国で甲斐常治方を攻撃したことがきっかけで始まり、義敏の命令違反に激怒した足利義政によって義敏が追放された事件である。家永説の最大の論拠はそこにあるであろう。逆に『青森県史』の年代比定は厳しくなる。というのは、応永二十一年に、このような甲斐氏と斯波氏の深刻な対立と、将軍家による介入が見出せないからである。ただ加賀守護家の斯波満種足利義持の怒りに触れて失脚し、満種の子の持種が越前国大野郡を支配し、斯波家の分家として存続する、という事件が起こる。ただそこに甲斐氏や二宮氏との対立を見出すことは難しい。というのは加賀守護は義持の近習の富樫満成に与えられるからである。満成は後に畠山満家や斯波義重や細川満元らと対立し、粛正されるが加賀守護職は斯波家の手には戻らず、富樫家が以降も世襲することになる。斯波家からすれば「無為に属す」とは到底いえない。
しかし「六郎殿 小具足」という記述を見る限り、この文書の発給年は永享年間初頭を下らない。とすればこの武衛家を襲った事件とは何だったのか、を考える必要がある。
永享元年(正長二年)八月二十四日、斯波義敦は管領に任ぜられる。畠山満家が「病身と老身」を理由に管領を辞任したからである。この時、義敦は管領就任をしぶった。足利義教は甲斐・朝倉・織田三人の斯波家被官を呼びつけ、義敦に管領を付けるように説得することを要請した。それに対する甲斐常治の発言が「義敦は管領の器ではありません。説得は無理です」と言い切って義教の前から退出してしまい、朝倉・織田も甲斐に同意した、という。(『満済准后日記』正長二年八月二十四日条)
他に永享二年から三年にかけては関東公方政策をめぐって他の大名と対立し、管領辞任を申し出るが却下されるという事件が繰り返される。領国の越前に下ろうとしたりして、義教や有力守護とトラブルになっている。義敦の奇矯な行動に辟易した甲斐常治らが義敦を抑えようとして動いた政変の可能性もある、と思う。
よって私はこの書状の年代を正長二年から永享三年の間に設定したい。
こう考えれば「年々二宮方より状を被進候間、其無御返事候間。無御心元存候由、毎度被仰候」というのも筋が通る。これを長禄合戦のときとみると、なぜ二宮氏からの書状を南部氏が無視したのかが説明できない。関東と京都の関係は、青蓮院門跡義円が還俗して将軍に就任したため、関東公方との間の緊張が高まっていたのである。「関東大名」南部氏が京都方の二宮氏と頻繁に書状のやり取りをしづらい状況になっていたのである。
また義教が内大臣就任のためだけに管領を斯波氏にしておきたい、と思ったため、義敦の能力を度外視して管領に据えたので、甲斐常治以外に補佐役を置く必要に迫られ、分家の斯波持種を起用し、若年であった持種(応永二十年、一四一三年生まれ)を補佐するためにもともと加賀守護家斯波満種重臣で、満種とともに没落していた二宮氏を起用したのではないか、と考えれば、本文とも符合する。
で、以降も二宮氏を通じた南部氏と斯波氏の関係は続き、斯波義敏と大崎教兼の良好な関係を通じて義政は関東を討伐しようと考え、長徳合戦後に義敏が一時的に復活する、という渡辺大門氏の『戦国誕生』の記述とも矛盾しない。
現時点での暫定的な見解、ということで。