「永玉書状」の年代比定

「永玉書状」の年代をめぐって『青森県史』と家永遵嗣氏の見解が食い違っていることに関して。
青森県史』は文中の「六郎殿 小具足」という記述から「薩摩入道」を南部政光と考え、家永遵嗣氏は下記の事件から「薩摩入道」を南部光経と考えた。

抑武衛方、世上之事、越前国、自 公方様、諸大名被仰付、以御勢御沙汰候間、属無為候、甲斐方始皆々満足候、殊ニ二宮信州御事者、公方様より内々被仰候間、西国辺より御上洛候て、所持御満足目出度候

上記の事件について家永遵嗣氏は長禄の内訌と考え、一方『青森県史』は応永二十一年の斯波満種失脚と考えた。で、私は以前この事件を斯波義敦管領就任をめぐるトラブルと考えていた。だから私はこの文書を正長二年から永享三年ごろと考えていたが、『満済准后日記』を眺めていたら正長元年八月六日条が目についた。とりあえず概要を言えば、斯波義敦が「計会余」に越前に下国しようとした、ということ。「計会」の内容はまた考えねばならないが、有力な解釈としては経済的問題ということか。この時期は称光天皇から後花園天皇への代替わりに当たり、後花園天皇の即位をめぐって後亀山院の孫の小倉宮関東公方足利持氏伊勢国北畠満雅の支援のもと、伊勢に脱出挙兵するという事件が起こったばかりである。そのようなさなかに斯波家当主が下国するというのは、「京都大名内少々同心申輩在」(満済准后日記正長元年七月十二日条)ということを考えると、穏やかなことではない。義教が説得に乗り出し、事無きを得たのである。
続きあり。
一応史料の引用を。

今朝大館入道来。相語云、武衛下国有増事堅固荒説之由存処、跡形有事候也。其故ハ先日織田伊勢入道所労以外間、為訪遣使者候キ。其時織田弾正出逢密々ニ物語使者候事ハ、武衛計会余在国事内若者共申勧事候キ。仍甲斐以下宿老申破了。無正体次第定可達上聞歟。計会云々。此事承間、サテハ雑説モ無子細事候けリト存。今朝召甲斐此事驚入之由具申処、其事候、無正体者共聊申旨候シ。雖爾堅申留候了。旨趣繁多間令略了。簡要ハ甲斐申留次第神妙無申計。此条内々達上聞処、甲斐申様御感無申計。此子細等具参御檀所可申入旨上意候云々。(『満済准后日記』正長二年八月六日)

実は講義で「京都大名内少々同心申輩」が誰だったのか、よく分からん、とペンディングしておいたのだ。そもそもそれについての論はなかったはずだ。しかしこの条文と照らし合わせると、「京都大名内少々同心申輩」は斯波義敦だったのだ。で、甲斐常治がすっ飛んできて「経済的困窮が原因です」と申し開きをしているわけである。八月六日上に関する議論は存在する。しかしこれを七月十二日条と絡めた議論はあったのだろうか。
こう考えれば常治の言い訳が「繁多間令略了」と言われるほど饒舌だったのもうなずける。常治と義敦が一芝居打っているのではなく、常治は義敦の短慮な振舞の尻拭いをしているのである。こう考えると、常治が義敦の管領就任に「非器」として反対したのも当然である。