仮名書きの御内書4

私が現在蒐集した仮名書きの御内書は琉球宛の「国書」と呼ぶべき文書を除くと五通。このうち三通は仮名を補助的に使っている程度なので、本格的に仮名書きの御内書は今のところ次の二通である。

こんとそうけきにつきて二郎(赤松晴政)のほりてちうせつ候はゝ、しんへうのよし申くたし候。さうさう上らく候やうにいけんをくハへられ候へき事よろこひ入候。かしく
  あか松うはの局へ
  あか松こうしつの局へ(赤松政則娘)

これを漢字混じりにすると以下の通りになる。

今度忽劇につきて二郎上りて忠節候はば、神妙のよし申し下し候。早々上洛候やうに意見を加へられ候へき事喜び入り候。かしく

この文書は年月日を欠くが、収録されている前後の文書から判断すると、大永六年十二月二十七日付の文書である。足利義維擁する細川晴元軍が畿内に進出してくる中で赤松晴政

あふみくつ木にとうりう候。この時へつしてちうせつ候ハゝかんように候。そのためにもと通をさしくたし候。又東さいの事もさうさうわよいたし候やうにけちせられ候へく候。よろつあかるへきやうにいけんをくハへられ候はゝよろこひ入候へく候。なを御さこの局申され候へく候。かしく
  十二月廿三日 御判在之
   あか松うはの局へ

これは以下の通り。

近江朽木に逗留候。この時別して忠節候はば肝要に候。そのために元通を差し下し候。又東西の事も早々和与いたし候やうに下知せられ候べく候。よろづ上がるべきやうに意見を加へられ候はば、喜び入り候べく候。なお御さこの局申され候べく候。かしく

これは年が書いていないが、享禄元年十二月二十三日付である。この年には義晴は朽木に移っている。文中「もと通」は「元通」か「基通」か迷ったが、近衛基通と紛らわしいので(笑)、とりあえず「元通」とした。「元通」ならば飯尾氏だろうし、「基通」ならば斎藤氏だろう。「あかる」も悩んだ。「明る」か「離る」か「上がる」か、よく分からないが、京都に「上がる」かな、と考えた。
この二つの御内書には重要な共通点がある。
それは両方とも宛先が「あか松うはの局」であることだ。以前にも触れたが、彼女は細川勝元の娘で、赤松政則の妻。政則との間に小めしをもうけ、義村を婿養子に迎えて赤松家を支え、「女戦国大名」と呼ばれた女性である。義村が暗殺された後は、晴政を擁立し、赤松家を支配した女性であった。女性大名であったから、足利義晴も御内書を晴政にではなく「あか松うはの局」こと洞松院に発給したのである。「レディサムライ」には仮名書きの御内書が発給されたのだ。