本当に北方史の史料?

室町時代津軽道南地域に関わる史料は少ない。以下に掲げる史料は、数少ない室町時代津軽地域に関する史料とされている史料である。

政所内評定記録(『室町幕府引付史料集成』)
寛正四年
四月十五日、内談
(中略)
一 武田被官与一色左京兆被官相論舟荷物事
於舟者盗物沽却云々。召上彼訴論人可被遂対決。至荷物者、彼船頭負物在之間押取云々。所詮、舟之荷船頭之計哉否、自余之津湊例相尋之、可依左右。 本ー清泉 合ー治河

四月廿六日、内談
(中略)
一 武田○〈被官〉与一色左京兆被官若州小浜住人等売買船相論事
売主有現在者、不日被召上、可有糺決云々。 本奉ー清泉 合ー治河

六月二十六日、内談
(中略)
一 武田被官与一色左京兆被官申舟荷物事
十三丸〈大船、〉事者、重格別之上者、於小浜立請人、先被返渡、相論枝舟事者、仰豊前守護、可被召上売主。 本ー清泉 合ー治河

寛正四年に室町幕府政所に提訴された訴訟の記録。後ろの「本ー清泉」や「合ー治河」というのは担当奉行の名前。武田、一色というのは若狭国の守護関係。元々は一色義貫が守護だったが、足利義教の命を受けた武田信栄によって暗殺され、信栄がその恩賞として若狭守護になった。しかし若狭国を領国としてきた一色氏の影響は小浜においては強く残り、信栄は小浜住人を処刑したりしているが、結局一色氏の影響が強く残っていた。
ここで問題になるのが、六月二十六日の「十三丸」である。これを「十三湊」に関係のある船と解釈するのだが、そうなると「相論枝舟事者、仰豊前守護、可被召上売主」という記述が問題となる。なぜ十三湊と小浜を結ぶ船に豊前守護としての大内教弘が関係してくるのであろうか。
小島道裕氏は「文献史料から見た十三湊と安藤氏」(十三湊の発掘調査報告書、第一集、64頁、2005年)において「問題が九州方面まで広がっていることも興味深い」としている。
「相論枝舟事」とあるから、ここで問題になっているのは「枝舟」であることが分かる。ちなみに「枝舟」とは本船に曳航または搭載され、積荷を積んだり、船と陸岸の連絡や積み下ろしに従事した船のことである。相論の対象となっている枝舟の処理に豊前守護が関わっていることを考えれば、問題は九州に広がっていることは間違いない。しかしこれが津軽から九州まで広がる問題であるかどうかは考えなければならない。むしろ小浜と豊前を結ぶ船である可能性を考えた方が自然だろう。大内氏と若狭武田氏の本家に当たる安芸武田氏は対立していた。細川氏との対立も深まって行く中で、大内氏は小浜支配を巡って若狭武田氏と対立する一色氏にかけた、と考えるのが自然であるように思われる。