中世の北海道史と一次史料

歴史学においては一次史料を中心に書くのが基本である。
とは言っても一次史料がほとんどない分野が存在する。中世の北海道史はその典型例だろう。いきおい編纂物である『新羅之記録』に頼ることになる。しかし残念ながら『新羅之記録』の信憑性は非常によくない、と近年の研究では指摘されている。しかし『新羅之記録』は一種の麻薬みたいなもので、使い出すと止まらないのだろうな、と思っている。その典型例として私はこの五年ほどやり玉に挙げているのが「下国安藤氏十三湊還住説」である。
満済准后日記』に永享四年に下国安藤氏が没落した、と書いてあり、『新羅之記録』には嘉吉二年に没落した、と書いてある。この両者は年代以外はそれほど齟齬がない。双方とも基本的な出来事は南部氏と下国安藤氏が争って、下国安藤氏が敗北し、北海道に逃亡した、ということである。これだけを見れば、一次史料である『満済准后日記』と編纂物である『新羅之記録』のどちらを信用するのか、ということになると思うのだが、『新羅之記録』を何であろうと信用しなければならない、と考える人々は永享四年と嘉吉二年の間に室町幕府の介入があって、それで還住できたと考えるのだ。しかし『満済准后日記』を虚心坦懐に読めば、足利義教畠山満家も南部氏が和睦を受け入れるとは考えてはいないのが明らかなのだが、それを無理な解釈をして義教の強力な介入を作り上げる。さらに考古学の調査報告も都合よく読み替える。そうなると今度は考古学も「文献ではこうなのだから」と無理な説明を紡ぎ挙げる。私が言いたい事は一つだ。『新羅之記録』に頼り切るのは止めにした方がよくないか、ということである。『新羅之記録』の信憑性を担保するために、当時ほとんど幕政に影響力を持たなくなっていた斯波義敦が大活躍するシナリオもあったし。
もっとも私が視野に入れている「中世北海道史」は道南のごく限られた地域のみで、室町日本との接点となる地域だけである。中世の(ここでは単純に鎌倉・室町時代に相当する時代とする)北海道は、ほとんど「日本」の影響はなかった、と考えたほうがいい。中には安藤氏がサハリンから津軽まで力を振るった「エゾの王」だった、という見解もあるが、かなり無理があると思う。
この時代のアイヌ(プロトアイヌ集団)を検討するには考古学の成果と、当時のアイヌ(プロトアイヌ集団)の記録が残る中華帝国の史料を検討しなければならない。そうなってくると、様々な言語に通じる必要が出てくる。サハリンの考古学の成果を知るにはロシア語が欠かせない。ロシアではアイヌの考古学的研究が進展している。また欧米でもアイヌに対する関心は高い。様々な成果が英語で出される。清代のアイヌの史料は満州語で書かれている。満州語も読めなければならない。もちろん中国でも研究が蓄積されている。
語学的な能力が欠落している私はもちろんアイヌ史に関しては第1線に立てない。そのことを十数年前に悟った。だから私はアイヌと和人の関係に話をしぼって細々とやることにしている。