『建内記』応永三十五年正月十七日条

本郷和人氏は足利義持の死因について、傷口から菌が入って死去した、という通説に疑義を呈し、『建内記』に義持のおできは「馬蹄である」とされていることに着目して義持の死因は憩室炎ではないか、と推測された(『満済准后日記』と室町幕府」、五味文彦編『日記に中世を読む』所収、吉川弘文館、1998年、239頁)。
で、私は娘の散歩中にそれに対する私なりの義持の死因に関する文章を書いていたのだが、途中で娘が帰ってきて、その相手をしている内に、文章が全て消えてしまって、無常観に襲われていたのだが、本郷和人氏直々のコメントをいただいて舞い上がっているところ。
まずは『建内記』当該条を検討したい。

御雑熱自七日成痛、十日比三位房允能法師拝見、為馬蹄之由申之。而奉療治之処、以外也。一昨日久阿弥拝見之処為疽、已腐入之由申之、不可及療治之由申之云々。

この辺の細かい描写は『満済准后日記』に詳しい。
七日には「室町殿御座下御雑熱出来云々。今日於風爐カキヤフラル〃間、御傷在之云々。但非殊事云々。」とある。
義持のお尻にできものができて、それを風呂で掻きむしって傷がついた、と認識していたようである。痛みが出たので話題になったのだろう。しかしこの段階では大したことではない、と認識していたようである。
九日に医師三位(三位房允能法師)が義持を診察した。「自夜前御所様聊御風気。又御雑熱モ又御傷興盛云々」とあるので、風邪とできものと傷のトリプルパンチだったようだ。
十日は義持への参賀の日だったが、「依御雑熱御安座難叶間、被延引了」ということで、「馬蹄」というのは傷が馬蹄形になっていることを示している。そこで気になるのが「馬足形風情云々」という言い回し。国家鮟鱇氏のおっしゃるとおり、なぜわざわざ「馬足形」という言い回しがあるのか。馬足形、馬蹄形のできものは状態が悪い、という共通認識があった、という可能性も考えてみたい。
とりあえず義持の病気は何か、と考えると、単に傷をつけたことによる敗血症ではなく、癰の可能性が高いと考える。癰が悪化して黄色ブドウ球菌による感染症が命取りになったのではないだろうか。