どう伝えるか

歴史学研究においてはしばしば時空を超越した解釈がまかり通る。11ノットで疾走する帆船もその一つだろうが、北方史でもそういう事例がある。現在津軽安藤氏が十三湊から没落したのは嘉吉二年(1442)が定説の地位を占めている。曰く、南部義政は安藤盛季の婿となって油断させ、嘉吉二年に一気に十三湊を陥れた、という。盛季は翌年死去し、安藤氏は北海道に落ちのびた、という。これは『新羅之記録』という17世紀中頃に松前景広によって記された著作に依拠している。
しかし『満済准后日記』には永享四年(1432)に下国(安藤氏)と南部氏が合戦して下国氏が北海道に没落した、という記述がある。矛盾する二つの史料がある場合、信頼性の高い史料を優先すべき、と私は考えるのだが、その見解は学界の大勢とは異なるようだ。現在の通説は、そこに足利義教の強力なリーダーシップが発揮され、安藤氏は十三湊に帰還できたが、嘉吉の乱で義教が横死すると、義教の制約から解き放たれた南部義政は安藤盛季と戦って、盛季を追い落とした、という。しかもそれは考古学の発掘成果からも裏付けられるという。
しかし問題がある。南部氏の系図によれば、南部義政は永享十二年(1440)に死去している。盛季も応永二十一年(1417)に死去している、とする系図もあり、何よりも松前藩の家老松前広長が『福山秘府』において盛季の死に関する『新羅之記録』を「妄説」と切り捨てているのである。つまり南部義政の幽霊と安藤盛季の幽霊が戦っていたのである!
さらに義教の強力なリーダーシップと問題解決への強い意思であるが、『満済准后日記』には畠山満家が強力に問題解決のために介入を主張するも、義教は南部氏が聞き入れないことを気にして消極的になっている。満家は室町幕府が遠国に強力に介入し得ないのは、昔からのことで今に限ったことではないのだから気にする必要はないと義教に申し入れているのである。しかし通説ではそれを強引に読み替えて、室町幕府は昔から遠国に対して強力な支配を及ぼしてきた、とするのである。
考古学からも裏付けられるというのも私が十三湊遺跡の発掘調査書を読んだところ、そうは言い切れない、というのを見出した。十三湊遺跡の北側は15世紀前半に火災によって焼失し、その後南側で再建されたが、やがて衰退したとされている。そこから南部氏に攻められて焼失した十三湊は、義教の介入によって再建された、と通説では考えるのであるが、そこでは再建の主体が安藤氏であることが全く示されないままである。むしろ北側に被熱遺物が見られ、南側に被熱遺物がほとんど見られないことを考慮すると、北側と南側の双方の衰退の原因を戦闘に求める見解に疑問が生じてくる。北側と南側は異なる原因で衰退した、と考えた方が実態に即してはいないだろうか。北海道の15世紀の遺跡を発掘している考古学研究者に聞いたところ、文献史学に従っている、ということであった。考古学から嘉吉二年没落説が裏付けられているのではなく、むしろ文献史学の嘉吉二年説に惑わされている、と言った方が正確だろう。
で、そういう明らかに誤った学説が幅を聞かせている時に、我々はどうするべきか。我々の前には幾つかの道がある。
一つはウィキペディアで研究者への罵倒を交えて自らの史料解釈の結果を示す、というものである。
もう一つはウィキペディアで研究者への罵倒を抑制して、自らの史料解釈と従来の解釈を対照させるというものである。
また、学会報告や論文の公刊を通じて自らの見解を世に問うて、世間に自らの見解を広めて行く、という方法がある。
どれが正しいかは、それぞれ考えがある。私は1993年に嘉吉二年十三湊没落説に疑問を感じ、1994年に学会報告を行ったのを皮切りに現在二回の学会報告、二本の公刊論文の発表を行ってきた。なかなか浸透しないが、一昨年のシンポジウム報告と、昨年のシンポジウム報告書の公刊を通じて、少しだが手応えを感じている。迂遠な道ではあるが、迂遠でも確実なステップを踏むことなしに学問的な営みは行えない、と私は信じている。