秀吉と政宗4


秀吉が関白や天皇を担ぐには、どのような意味があったのか。それを考えるために、政宗の言い分を検討しておきたい。
政宗は自己の行為(惣無事政策を無視して芦名氏を攻撃した)を正当化するために、祖父の伊達晴宗が奥州探題に任命されたことを挙げている。当時奥州探題それ自体が何らの地位も権限も担保しないことは明らかである。奥州探題はもともと大崎氏によって世襲され、南陸奥の地域権力の一つに転落していた。室町幕府が一門の大崎氏から、有力とはいえ、国人領主にすぎない伊達氏に奥州探題の地位を与えたのは、当時の室町殿であった足利義輝の政策の結果である。義輝は積極的に室町殿権力の再建を目指し、最終的に三好三人衆松永久秀によって殺害される室町殿である。義輝は地方の強力な勢力を親室町殿勢力として積極的に再編しようとした。その努力の一つが豊後国守護職の大友氏の九州探題と伊達氏の奥州探題就任である。
ではなぜ伊達氏は奥州探題の職を望んだのであろうか。それを理解するためには、書札礼を理解する必要がある。書状のやり取りにおけるマナーである書札礼は、書状をやり取りする当事者相互の地位の高低を明示化する。上位下達と下位上達の書状は必然的に書き方が異なるのである。
伊達氏は越後上杉氏と密接な関係を取り結んできた。しかし越後上杉氏は守護、伊達氏は有力とはいえ、国人領主にすぎない。伊達氏が上杉氏と対等の関係を結ぼうとしても、上杉氏がそれを認めなければ、両者の関係は対等には決してならない。しかし陸奥国守護職奥州探題であれば、上杉氏もそれを認めざるを得ないのである。
ただ問題があって、陸奥国鎌倉時代以来守護職が設置されていない。室町時代には奥州探題が設置され、足利一門の大崎斯波氏が世襲してきた。しかし大崎斯波氏に権力が集中して、室町幕府を脅かさないように、意が払われた。具体的には関東公方の一門の足利満直を篠川公方として、大崎氏及び鎌倉公方に対する牽制役を担わせた。さらに伊達氏や蘆名氏などの有力国人領主室町幕府直属の勢力として積極的に登用した。
問題は伊達氏が国人領主を超越する立場を欲してきた時、幕府としてはどのように対応すべきか、ということになる。伊達稙宗陸奥国守護は、室町幕府の苦肉の策である。大崎氏の既得権を侵さずに、伊達氏の要求を叶えるウルトラCというところであろうか。しかし足利義輝の時代には、大崎氏の既得権よりも、伊達氏を自己の陣営につなぎとめることが優先されたのである。こうして伊達氏は政宗の祖父の代には奥州探題になり、晴宗の息子は義輝から一字を拝領して輝宗と名乗る。政宗元服する時には室町幕府は崩壊していたので、政宗となったが、もし室町幕府が確固として存続していたら、足利義昭から一字を拝領して、昭宗とでもなっていたのではないだろうか。
次はこの一字拝領という行為について考えたい。
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