奥州探題を考えてみる3

画像は蘆名盛氏再掲。

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蘆名氏は「郡守護」と称し、分郡(自己の支配する郡)内の行政的な統治権を有し、実質的な守護として存在していた。そういう有力国人には、他には伊達氏、相馬氏、南部氏などが存在した。大崎氏も奥州探題と同時に大崎付近を支配する郡守護としての側面をも有していた。南奥(現在の福島県)の諸氏には、鎌倉府牽制のための役割が期待され、京都御扶持衆として組織されていた。そして彼らの束ね役として奥州探題ではなく、篠川御所の足利満直が登用される。満直は甥である関東公方足利持氏に取って代わることを期待し、早くから室町殿側に立って活動していた。永享の乱で持氏が粛清されたのもつかの間、持氏の残党である石川氏によって満直が滅ぼされると、満直の後見役を務めていた白河氏を中心に南奥の勢力は再編される。白河氏を支えたのが、太平洋から日本海を通じる流通路であり、越後に通じる会津を支配して、白河氏体制を支えたのが蘆名氏である。
一方大崎氏は北奥(現在の青森県から岩手県)から中奥(現在の宮城県)の国人に対する軍事指揮権を保持し、南奥の篠川御所や白河氏を支援する役割を期待されていた。
特に1450年代には大崎氏体制は充実期を迎えるとされる。その頃には斯波武衛家(斯波本家)の当主に斯波義敏が就いて、久方ぶりに健康な成人の当主がついた時期とされている。大崎氏の充実期は、斯波武衛家の充実期であった、と黒嶋氏は主張する。しかし義敏は重臣甲斐常治(甲斐将久)と対立し、やがて没落し、奥州探題にとっても難しい時期を迎えるとする。
常治と義敏の対立についてもう少し詳しく見ておかないと断言はできないが、義敏と常治の関係は当初から波乱含みで、義敏の当主就任が直ちに斯波武衛家の充実期であった、と評価することには慎重でありたい。またこの時期、義敏は南部氏の手筋を務めていたことが、南部家の文書から明らかなので、この点も少し考える必要がある。さらにいえば、南部氏との実際の交渉を担っていた二宮氏について、家永氏は常治との密接な関係と義敏との対立関係を強調するが、私はその見解には反対である。むしろ二宮氏は義敏派であり、南部氏も大崎氏と同様に義敏を手筋としていたと考えたい。
義敏の没落と渋川義廉の斯波武衛家当主就任によって、大崎氏は中央の基盤を失ったか、といえばそうではない。幕府側でも手筋を再編する動きがあり、太田光爆笑問題ではない)という幕府の官僚がそのころ奥州を精力的に動いていることが、家永氏によって指摘されている。大崎氏の手筋は義敏から飯尾之種へ、さらには伊勢貞親へと変転している。さらに1483年には斯波武衛家が解体され、斯波武衛家は管領家から尾張を支配する守護に転落する。その出来事は確かに大崎氏にとっては痛手であろうが、伊勢貞親斯波義敏が一斉に失脚した1466年の文正の政変の方がむしろ大崎氏にとっては痛手だったのではないだろうか。文正の政変と奥州というテーマも考える必要があるだろう。文正の政変で没落した伊勢貞親は、大崎氏のみならず、南部氏も担当していたと考えられ、またそのころ安東氏によると考えられる矢不来館が築造されていることを考えても、文正の政変の奥州に与えた影響は考察する価値があると思われる。
ただ、大崎氏は斯波武衛家に連なるという側面を京都において活用していたと考えられることから、斯波武衛家の没落により難しい立場におかれたであろうことは想像にかたくない。