奥州探題を考えてみる4


Copyright © 2010-2013 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.
画像は南部晴政カード。いうまでもなく足利義晴偏諱を受けている。晴政や大崎義直はどうやら使節団を派遣していたようだ。その中核となったのが、大崎義直であった。
1539年、大崎義直の使者が伊勢貞孝の元を訪れ、また大館常興は南部彦三郎への将軍足利義晴の一字偏諱について諮問を受け、許可するのが良い、と回答している。葛西氏からも使者が伊勢貞孝の元にやってきており、彼らがばらばらにやってきた、と考えるよりは、彼らは一団の使節団として行動していた、と考える方が自然であると黒嶋氏は推定している。ここから陸奥国人の上に立ち、幕府との関係を媒介する奥州探題の姿が見える。
このころの京都は三好長慶の反乱も収束し、細川晴元、六角定頼らによる義晴体制が安定していた時期であり、幕政の安定と使節の派遣は関係が深いだろう。
もう一点、大崎氏に内紛が起きていたことも見逃せない。義直の兄が死去したのち、伊達稙宗は子息を大崎氏の後継者に据えようとしており、大崎家中も伊達派と反伊達派に分裂していた。伊達稙宗細川晴元とは距離を取り、細川氏綱と関係を深めており、義直は氏綱と対抗していた細川晴元と結びつくことで、伊達稙宗との抗争を乗り切ろうとしていたのだろう。結局、義直は義晴から和睦命令を取り付けることに成功する。陸奥国の政情と、京都の政情が連動している様を看取することができる。
黒嶋氏は、その前年に派遣された義直の使者に着目する。出羽三山の一つ湯殿山の行者であった常直上人が使者となっている事実は、羽黒修験と大崎氏の関係、さらには大崎氏の出羽国への影響力の存在を示している。
大崎氏は十六世紀中葉に至っても、奥州探題として認識され、武家秩序の要として存在感を示していた、と黒嶋氏は主張する。そして大崎氏の存在が軽視されてきたのは、伊達稙宗陸奥国守護職補任が大きな画期と評価され、大崎氏の凋落を示すものと考えられてきたためだとする。